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オスロから30年、イラクからイスラエルへ

 私が、パレスチナにすんでいたのは1997年-2002年のこと。1993年のオスロ合意をTVで見ていた時は、会社を2年間休職して、イエメンに行くことが決まっていたから、いろいろ中東のことを勉強していたのである。当時は落合陽一のお父さんの落合信彦がはやっていて、イスラエル関係の本もよく読んだ。
 簡単にいえば、湾岸戦争で、サダム・フセインは、占領したクウェートから撤退する条件として、「イスラエルがパレスチナの占領をやめろ」と尤もなことをいうもんだから、PLOを含めパレスチナ人は喜んだ。しかし、国際社会はとりあえず、パレスチナ問題を棚上げして、イラク攻撃に集中した。クウェートが解放されると40万人ほどいたと言われるパレスチナ人への迫害が始まり、彼らの多くは、同じく、イラクを支持したヨルダンへ追放された。
 やはり国際社会は、パレスチナ問題には責任がある。無理やりにイスラエルを作ったことで、パレスチナのナクバ(大惨事)の責任は国際社会にある。アラブ諸国は、湾岸戦争では、イラクたたきでほぼ団結はしても、やはり、パレスチナはアラブの大義には違いない。
そこで、アメリカとソビエトが中心となって、湾岸戦争が終わった1991年10月にマドリードで和平会議を開くも、この時PLOは蚊帳の外だったこともあり、会議の進展は全くなかった。
 ところが、なんと1993年にノルウェイでひそかに秘密交渉が行われ、アメリカは出し抜かれた形でイスラエルとパレスチナは和平合意にこぎつける。二国家共存の為にお互いを認めたのである。
私は、「ノルウェイの森」でそのような秘め事が行われているなんてことは全く知らなかった。
1993年の9月13日、ワシントンでクリントン大統領にそそのかされて、アラファトとラビンが握手する。アラファトは、さっと手を差し出すとラビンの手を握り、大げさに振って見せた。ラビンはとても嫌そうに見えたし、シモン・ペレスはもっと嫌そうに見えた。
しかし、ラビンのスピーチは素晴らしかったのである。
「私たちは今日、大きな声ではっきりと皆さんに言います。血と涙はもうたくさんです。 もうたくさんです。 私たち復讐する気はありません。 私たちはあなたに対して憎しみを抱いていません。 私たちもあなたと同じように人間です。
家を建てたい、木を植えたい、愛したい、あなたと一緒に暮らしたいと思っているのです。
尊厳、共感、自由、そして人として。 今日こそ、平和にチャンスを!」

 私は、そのあと、イエメンに向かったが、そこで内戦に巻き込まれ結局シリアで2年間を過ごすことになり、ラビンがそのあと、イスラエルの右派の青年に暗殺されたことは、シリアのニュースで知った。
それでも、和平は進んでいた。
私が赴任した1997年は少し緊張していた。和平に反対しているハマスが、アハマド・ヤシンを釈放せよとテロを仕掛けてきたが、アハマド・ヤシンが釈放されるとテロもピタッと止まった。
世界中が「平和」というロゴマークをパレスチナに持ち込んだ。これには、パレスチナ人の一部は辟易していた。「何でもかんでもイスラエルの人たちと一緒にステージに上がらされる」
ただ、音楽はそれ以上の物がある。エドワード・サイードはオスロ合意に反対していたがバレンボイムと組んで、音楽でつながる手助けをしていた。
 私は、そういう流れにあやかってコンサル・バトリーにピアノを寄付したり若手のミュージシャンとイベントを企画したりする仕事をすることになった。
西岸に暮らし、難民キャンプに出入りするようになると、どうしてもイスラエルの人達とは付き合いがなくなってしまう。パレスチナの音楽家たちのコンサートに行く機会はあってもイスラエルの文化まではカバーしきれないし、結局イスラエル人の友達はできなかった。
 その代わりとは言って何なのだが、西エルサレムのタワーレコ―ドにはよく言った。ジャケ買いしてヘブライ語のロックとかのCDを買う。ヘブライ語の響きは、実はロックにあってっている。英語以上に心地よかったりする。当時はまだグーグルとかもなかったのか、翻訳するのも大変で、ただジャケ買いして意味の分からないヘブライ語の音楽を聴くだけだった。
 タワーレコードには、アラブぽい音楽もある。
なんとなく見つけたのが ヤイル・ダラル(Yair Dalal)
ビートルズのWe can work it out をウードで微分音使ってやるのですごい面白かった。コーヒ―弾き(マーハバーシュ)をパレスチナ人はリズム楽器として使っていて、結構この楽器にはまっていたのだが、Yairもバイオリンを弾きながらベドウィンのAzazme部族の人たちと共演しているジャケットを見てすぐに買ったのだ。
ただ、Yair という人のことが当時あまりよくわからなかった。
最近このCD を見つけて調べてみた。
彼のルーツはイラクである。

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あまり語られることはないのだが、イスラエルが建国されたことで、今までアラブ諸国で暮らしていたユダヤ人たちの迫害が始まる。ヨーロッパのキリスト教徒たちはユダヤ教徒を忌み嫌い、ホロコーストでは大量虐殺につながった。アラブ諸国では、今まではそういうった差別はほとんどなかったが、イスラエル建国と同時に、同じようなことがアラブの国でおこる。
その結果、国を追われたユダヤ難民の約60万人がイスラエルに移住することになった。イスラエル建国で追い出されたパレスチナ難民と近い数のユダヤ人がアラブを追われたのである。
(迫害されて移住したユダヤ人もいるが、ユダヤ機関がムスリム同胞団に成りすましてテロを行い、恐怖を与えることで、ユダヤ人のイスラエルへの移住を促進するという戦略(偽旗作戦)もしばし用いられたらしい)

バグダッド、1941年6月1日から2日にかけて、180人以上のユダヤ人が殺害され、1000人が負傷し、財産が略奪され、900軒の家が破壊された。 この出来事は「ファルハド」と呼ばれ、イラクのユダヤ人の歴史を変え、彼らが「兄弟」と呼んでいた人々に対する彼らの不信感の始まりを示した。
イラクに残留するユダヤ人に対して厳しい法律が課せられた。1963年までに、すべてのユダヤ人は黄色の身分証明書を携帯する必要がありました。アラブ軍が六日間戦争に負けた後、ユダヤ人コミュニティに関連する法律はさらに厳しくなりました。ユダヤ人の財産は没収され、企業は閉鎖され、口座は凍結され、電話は撤去された。長期間にわたる自宅軟禁と渡航制限の中、多くのユダヤ人は、抑圧から逃れる唯一の方法は、粘り強く移住を計画し続けることだと感じた。


イスラエルに到着したイラクからのユダヤ難民

 私は、2003年のイラク戦争を契機にイラクにかかわるようになったが、当然ながらイラクのパレスチナ難民に興味を持った。
 彼らのほとんどがハイファ出身で1948年にジェニンに避難した。イラク軍に保護されたが、イラク政府は、当時は王政を引いており、ファイサル2世の取り計らいで、彼らは難民ではなくゲストとして手厚く扱われることになる。4000人のパレスチナ難民がイラクに、そしてその後、イラクにいた約13万人のユダヤ人が、イスラエルへ向かうことになった。

4000人のパレスチナ難民がイラクへ。のちイラク戦争(2003年)には35000人ほどいたが、シーア派の迫害を受け現在では、3000人ほどに減った。
イラククルド自治区の首都アルビルの旧市街の一角には、かつてのユダヤ人街が廃墟となってそのままの状態で残っている。



湾岸戦争中、作曲した曲には、イラクからイスラエルに落下するスカッドミサイルの音を模倣したヴァイオリンパートが含まれているという。イラク人のウード奏者、ナシール・シャンマは、同じく湾岸戦争をイラク側から「アメリア」という曲でウードで、空襲警報のサイレンの音を表現していて比べてみると興味ぶかい。
*アメリアはイラクにあるシェルターで湾岸戦争時にそこに避難している民間人に米軍のミサイルがぶち込まれ1186名が死亡した。

オスロ合意以降は、1994年、彼は「ザマン・エル・サラーム」という曲を書き、イツハク・ラビン、シモン・ペレス、ヤセル・アラファトのノーベル 平和賞授賞式 で披露.
アラブ人とイスラエル人の間の平和を促進するための「平和のためのコンサート」を創設し、「インシャッラー・シャローム」というタイトルのアルバムを書いた。彼はパレスチナ人ミュージシャンのバンドと一緒にツアーを行ったことがあるが、第二次インティファーダが始まると、一緒に旅行することは禁じられた。Beatles のWe can work it out をカバーしたアルバムは現在入手困難


こちらは、ジョンレノンの、Oh my love をウードでカバーしている。https://yairdalal1.bandcamp.com/track/oh-my-love

また、こちらのアルバムは1996 年にリリースされており、ラビン首相が暗殺され、追悼の曲かと思われる Rabinという曲も含まれている。



 
 

こちらは、Yairはバイオリンとボーカルで、バリバリのブルースを演奏している。ヘブライ語で歌われるブルースもなかなかいいかんじ。

Yail Dalal のオフィシャルサイトはこちら➡https://www.yairdalal.com



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