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メモなんてとらずに聞く方がいい。

イベントなどで話を聞くとき、話の内容をメモする人って結構多いと思う。資料として移された内容も話された内容もできるだけたくさんメモしておこうっていう人も多いのではないかと思う。特に何かを学びたいようなとき。
メモしておくことで、覚えたり見直したりして身につけたいからだと思うけど。

でも、聞きながらメモをとらない方がいいと思っている。
聞くときは聞くことに集中したほうがいい。

グラレコという、メモとりまくっているようなことをしていていうのもなんなんだけど、逆に、メモとりまくっているからこそそう思う。

すべてを、できるだけたくさんのことを、記録しようとしているとき、「記録すること」に必死になっている。
もちろん、記録するためにできるだけよく聞いてよく見ようとしている。聞いたこと見たことを覚えておいて描かなければと集中している。
だけど、あくまでも「記録のために聞く、記録のために見る、記録のために覚える」なんだよなって思う。

次々と聞くこと見ることを覚えては描いて、とやっていくので、一時的に記憶しては描いたら消去して次のことを聞いて見て覚えて、ってやっている感じになる。一時メモリ領域に保存しては処理して削除しているような。
どこか気になるところ印象的なところがあっても、そこだけ別のところに保存できるわけでもない。

なので、聞いているのに、聞いた感があまりない。「描いた」感ばかりになる。
あれだけ描いているのに、印象に残ったって思えるところがあまりない。印象に残ったとその瞬間思って描いたのに、印象に残ったと思って描いたことを記憶している感じになる。

「聞くこと」「見ること」「感じること」よりも、「記録すること」がメインになってしまうのだ。

必死に記録しているとき、自分のイマココはノートや紙やiPadのように感じる。
聞いたこと見たことは情報でしかなくて、感じたことでさえ情報になってしまって、記録した情報と向き合っているようになってしまう。
ひたすら描いているとき(ひたすらメモしているときも)、あとでふと思い出しやすいのは自分が描いた内容だ。描いたイメージが浮かぶ。話している人が話しているところとか、聞いている自分が感じたこととかではなく。(もちろんそれらもまったく思い出さないわけではないけども、情報として思い出す感じがしてしまう。)

逆に、ほとんど何も記録しないようなとき、自分のイマココはその場にあるように思う。
話している人の声や表情やしぐさなども含めて、「話を聞いている」ように思える。話している人や、その場所にいる人に、向き合えているように感じられる。
メモも今日はそんなにとらなくていいかなって気楽に参加しているようなとき、もしくはメモなんてとる余裕がない構成のとき(ワークショップ的なのとか)ほど、特に印象に残ったシーンとかそのときの感覚とかが思い出せるなと思っている。

もちろん私はそう感じるだけでほかの人は違うかもしれないけど。
でもそんなことない?
メモに必死になっているとき、話している人を見て話を聞けなくない?聞いたことについて自分がどう感じたかとか思っている暇なくない?

なので、せいぜい、ところどころでキーワードをメモするレベルでメモしておくくらいがいいのではないかと思っている。
聞いたことを思い出すキーとしてのメモっていうくらいの。
なんなら最後に感想と印象的だったことをメモしておく程度でも(それだったら覚えていられるならまったくメモしないでも)いいと思う。
どうせ、それくらい印象に残ったいくつかのことくらいしか覚えておけるものではないのだ。しかも、情報としての記憶よりも、自分が感じたこと考えたこととのセットでの方が身にしみやすいと思うので、ただ情報の記録だけより感想だけの方がいいくらいだと思う。

だから、今回参加したMiLIシンポジウムの構成はすごくよかったなって思う。話すパートのあとにジャーナリングする時間があり、気になったことや思ったことなどをメモしておくっていう構成。
そのための時間があるっていうことと、自分が気づいたこと感じたこと思ったことを書きましょうっていうところがいいなと思った。(マインドフルネス的には当然のことかもしれないけど。)
自分が何かするときにもまねしたいなと思う。

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