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違いがあるところからのスタートの方が楽じゃない?

「意見を受け入れる」ということや「話し合う」ということなど、考え方の違いが、否定や反対と受け取られてしまうことになる場合がある。

ただ、違うってだけで、自分が正しくて相手が間違ってるって言いたいわけではないのにな、と思う。
どっちが正しいのでもなく、逆にどっちも正しかったりするのだと思うから。



それぞれの考え方や状況や背景などによって、何を正しいとしてどうしたいかって違うものだと思うし。
何を正しいとするかは自由で違ってていいと思う。

違って問題なときもあるけど、必要なときだけすり合わせたりできたらそれでいいし、すり合わせたり一時的に折れたりして何かできればよく、考え自体を変えたりしなくてもいいのではないかと思う。

たとえば海外に行ったときに、日本語が通じないならその国の言葉を使ったりもするだろうし、服装とか食べもの食べ方とかもその国に合わせたりする。
でも日本に戻ったら元どおり普段の生活をする。
日本と外国と、それぞれの文化はそのままでいいじゃん?どっちが正しいとか合わせさせるとかでない。

そんな感覚で、その場で必要な考え方などに合わせないといけないときだけは合わせるけど、普段はそれぞれの考え方がある、っていうのでいいと思っている。

逆に、誰かの考えに合わせるべきだ、というような人は、ただひとつの正しいもの、正解とされるものがあるという考え方なのかなとも思う。
ひとつの正しい答えがあるもので、それはみんなが納得できるものだという考え方だったら、ひとつの考えに合わせるものだと思うのもわかる気がする。

ひとつの答えがあるというのがスタートか、人によって違うものというところからのスタートか、考えはじめるところが違うなら、あれこれ話してもずれてしまったりお互いわからないのも当然のようにも思う。

でも、わかるなぁと思うし、自分も昔はそうやってどっちが正しいとか戦ってたなとも思うんだけど、それはもう無理だなぁとも思う。

何が正しいか、誰が正しいか、って、答えをひとつに決めようとすると、勝負みたいになってしまうから。
勝とうとして、戦って、っていうのがしんどいからもうやりたくないなと思って。
答えを決めたい人は決めたらいいと思うし、戦いたい人は戦えばいいけど、自分はそこからは降りたいなというだけなんだけど。

文化を無理矢理変えることはできないように、でもいつのまにか融合していったりゆるく取り入れられたりするように、違うものを知って変わるかもしれないし変わらないかもしれないけど、それくらいのゆるさでいいじゃんと思うし、そういさせてほしいと思う。

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