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テクニックじゃなくて心とか態度じゃない?

共感してなさそうなのに共感してるっぽい態度を示すくらいなら、共感してないそのままで話したらいいと思う。

ほんとに共感してるわけではない、っていうのはすぐわかるじゃん?

共感するのがよいと考えて共感っぽい形を見せているのかな?と思ったりもするし、適当に聞いていて適当に反応していて形だけみたくなっているのかもしれない、と思ったりもする。

形だけでもそのように見せようとするのが誠意や優しさと考える人もいるのかもしれないけども、本音でないやりとりをしても、コミュニケーションできないしつながれないと思う。

共感に限らず、「傾聴」についても同じようなことを感じる。
特徴的な態度や言葉をまねしたって、「傾聴」じゃないじゃん?

「傾聴」の意味を考えてみてほしい。
文字どおり、「耳や心を傾けて聴くこと」だ。
形ばかりの態度を示したって、聴けてないし傾けてないじゃんね?
相手のことを見ていたら、相手のためを考えていたら、形ばっかりにならないはずだ。

「傾聴」っていう言葉が広まって、「傾聴するのがいい」っていう風潮みたいなものだけが広く知られて、「傾聴ってこんな風にやるんでしょう?」って型やテクニックとして覚えている人が結構いるように思う。

「うんうん、わかるわかる、って、否定しないで聞くやつだよね」
「ただ聞くっていうから、黙って聞いてるから自由に話して」
とか(たとえじゃなくてほんとに実際に言われたことがある)、テクニックさえもできてないほど適当な形だけやってるようにしか見えない。

テクニックとか型としか見ていないから、こんなセリフが出ると思うのだ。
自分がそう言われたら、そのように思われて接されていたら、どう感じる?
それを想像したら、そんな風に言えないし思えないことない?

確かにカール・ロジャースは、傾聴の3原則として「共感的理解」「無条件の肯定的関心」「自己一致」と言っているけども、それは「共感の形を示すこと」「肯定の形を示すこと」とは違うから。
相手に心を寄せて(共感して)理解しようとすることとか、相手のことを無条件に受け入れて尊重することとかだし、自分に正直にいて相手に正直に表現することは、テクニックや型とは真逆だと思う。

聴く人の心や態度の話であって、そういう心や態度はこんな言動に現れているよ、っていうことと、それと同じ言動をすればその心や態度でいることだ、というのは全然違う。

なんでも「テクニック」「型」みたいにしていては本質を見失うと思う。
単純化してとらえて、その形や手順をまねしたらそのとおりにできるような、操作手順や処理手順のようなものもあるけども、人の心とか、人とのコミュニケーションとかは、そんなものとは違うよね?

うまく話そうとする、うまく聞こうとする、そのためのテクニックを使う、というよりも、話したい、聞きたい、相手を知りたい理解したい、っていう気持ちの方が大事だし、結果的には伝わるし聴けると思う。
(プレゼンとかでの、短い時間で相手に届ける、印象を残すのとかは全然別の話。)

こんなテクニックで聞くんだよね、ではなくて、相手が何を話したいのかな、相手は今どう思っているかな、って相手を見ながら考えながら聞けば、それでいいと思う。

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