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書かなくても書けなくてもそこから何かがわかる。

何かを進めていくときには、考えていることを言葉にすることからはじまる。
実際には、書くとか話すとかでなくても、言語化できれば頭の中にあるのでも何か進むとは思うのだけど、でもやっぱり、言葉にして外に出す、ってところに力が働いていると思う。
なんでなのか理屈はわからないけど、でも確かにそこに何かの力がある。

だから、言葉の力ってすごいなと思うし、書くことの効果って大きいなと思うのだけど。

でも、外に向けて何かをするときには、言葉にして形にしてわかりやすい結果をつくることが大事だし求められるけど、自分の内に向けて何かを探りたいときには、何もできないこと自体も結果になる。

「ライティング・ライフ・プロジェクト」は、「書く」ことで自分のことを確認していく作業なのだけど。
でも書けなくたって自分のことは考えられる。書けないままでも知っていける。

なんで書けないのだろう?
なんで書きたくないんだろう?
書けないのか考えられない思いつかないのかどっちだろう?
なんでいやだと思うんだろう?

なんで書きたいと思ったんだろう?
それなのに書けなかったのはなんでだろう?
苦手なのになんで書いてみようと思ったんだろう?

書けるときと書けないときは何が違うんだろう?
楽しく書けるときと書くのがつらいときはどういうときだろう?

一言で「書けない」「書かない」って言っても、状況はいろいろで、理由もいろいろだ。
自分に対しての「なぜ?」はたくさん出てくる。
書いたときでも、書かなかったときでも。
「なぜ?」の内容は変わるかもしれないけど、そこから見つかるものは変わらないかもしれないし、内容が変わるから見つかるものもあって、それはそれで必要なものだろうしおもしろいと思う。

他人から、「なぜ?」を聞かれるのは、責められているように感じたりめんどうだったりして困るのだけど、自分で自分に問う「なぜ?」は楽しい。

「なぜ?どうして?」って詰問する感じじゃなくて、「なんでなんだろうなー?」って自分をおもしろがって見ている感じ。
(自分で自分に問うのでも、「なんでよ?」ってテンションで考えたら辛いと思う。)
それを考えて何がどうなるってものでもないけど、ふと感じる感情や、とっさに出てくる言葉や考えなどが、どういうところから出てくるんだろうって見ていくのが楽しかったりする。
なぜなのかがわかったら、そんなの気にするのが意味ないな、と思えたりして特に気にならなくなることだってある。自分がやめたいこととかに対処できるようになったりもする。
もちろん考えてもわからないこともあるけど。

すっかり忘れてたこととかを思い出したりもして、そういうのも楽しい。
そういえばこんなことあったからこれ好きだったんだよな、とか、その逆にこういうことで嫌いになったんだよな、とか。

別にそうやってふりかえったり考えたりというのは「書く」ことに限らずできることではあるのだけど。
でもやっぱり「書く」っていうのは、手を動かしたり書いたのが目に入るってところも含めて、変化を起こしやすいのだと思っている。

ライティング・ライフ・プロジェクト0期、募集開始しました。
※0期のみモニター価格になります。
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