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自己開示の意味とは?

対話の効果とか対話する意味などを話していたときに、集まってコミュニケーションをとる価値ひとつとして「自己開示」というのがあった。

気づき・自己開示・一体感・感情共有の場があることが、仕事の効率性、職場の一員であること、新たな取り組み、生き生き働く、それぞれのポイントを押し上げていることが示されている。
リクルートワークス研究所
https://www.works-i.com/project/gettogether.html

メンバーで話をしていて、1人の方となんか話が噛み合わないなと思ったら「自己開示」というのを、自分の自慢とか自己顕示欲的なことを話すような「自分のことを話す」だと思っていたようで。
ほかの人と、本音で話せるとか心を開くとかそういう意味で使われているはずと説明していたら、今そこは論点でないからどっちでもいいなどと言われて、そんなままで話していいのかなと思ったりした。
そもそも対話について話してるのに認識ずれそのままっていうのは対話をおろそかにしている感がある。

と書きつつ、そう感じたのに飲み込んでそのままにしていた私も同類だなとは思うけども。

でもこういう、定義があいまいだったり人によって場面によって使われ方が違ったりする言葉の認識ずれというのは、よくあるとは思う。
そしてずれたまま話してしまってるのも、気にしないでそのままになってたりも、よくあるだろうと思う。

ずれているのに気づかないのも多いはずだ。
たとえば、今回も「自己開示」を同じように「本音で話せるとか心を開くとか」と認識していた人がいたけども、では「本音で話せる」「心を開く」ってどういうことなのか、どんな状態をそういうのかって、話してみたら一致しないのではないかと思う。

だから曖昧なふんわりした言葉が出てきているときは、どういうことを指しているのか認識合わせした方がいいんだよなぁと思う。
私自身ふんわりした言葉使いがちなので気をつけないと。

「本音で話せるとか心を開くとか」というとよいことのように思われるけども、自己開示したらよいとは限らないとも思う。
なんでも開示したらいいわけではなくて場や相手も内容も選ぶべきだろうし。相手が自己開示されたことやその内容を、信頼や親愛に基づくものだと受け取らなかったら、逆に信用されない気がする。

あと、信頼関係を築いたり信頼してると見せるためにテクニック的に自己開示するというのがあるけど、その場合に自己開示としての価値があるといえない気がしている。
たいして信頼してなくても信頼ぽさを見せるために当たり障りのない範囲の、ごくプライベートぽいこととか失敗談とか、建前じゃなさそうな話とかしたりもするけど。
相手から見て、信頼してないと言わなさそうなプライベートな話をしてくれていると思うかもしれないし、信頼してくれたり心を開いてくれたりにつながったりするなら目的は果たしているだろうけども、それは意味あるのかなぁと思って。

人によって定義や受け取り方が全然違うとよかれと思ってのことでもすれ違ってしまうだろうし、話をしていてもずれるだろうし、定義や意味が曖昧な言葉って難しいなと改めて思ったのでした。

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