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与えているようで与えられている。

先日の読書会で、本の話から離れて部下の育成の話が出たときに「教える」という言葉が出てきて。
まぁ文脈的にはあたりまえな感じではあったんだけど、「"教える"っていう言葉自体が好きじゃなくて」とつい言ってしまった。
(というような話を、めっちゃひさびさだったり初めて会ったりなのに聞いてくれる人たち好き。)

「教える」って言った瞬間、教える側と教えられる側の上下関係ができるじゃん?
上司と部下みたいなもともと上下関係にない関係であっても、対等なはずででも、教える側になった方がなんとなく上のような関係性に変わってしまうと思う。

教えることで無意識にでも優位に立とうとする人もいるよね?勝手にアドバイスする人とか。
で、そういう場合には特に、教える側に立つ人の正しさや信念などに内容が左右されがちっていうような点もある。

教えるのと教わるのでは、教える側が知識経験スキルなどを一方的に与えているように感じられる。
でも、教えることでしか得られないものもあると思う。

教えてもらうことで得ることは多いけども、教えるという行為や役割でしか得られないものがあるし、そういう対価(という言い方も好きではないのだけど)などがあるから、教えることをやるのではないかと思う。
関係性とか、役割や地位とか、優越感や承認欲求を満たすこととか、報酬とか感謝とか、相手の成長に関わっている充実感とか?
教えるためにまとめたり整理することで気づくこともあるし、教えていて問われることや相手がわからないことで考えることもあるし、自分にはない視点や考え方を知ったりもする。

教えることに限らず、いろんなことにおいて、何かを与えているようでそこから何か受け取っているのではないかと思う。

実際に何かモノなどを贈ることでも同じだなぁと思う。
結局、自分が何かをプレゼントしたくてするときって、プレゼントを考えたり渡したりすることで満たされている。

プレゼントすること自体が楽しみだったりするし、準備とか相談とか全部自分がやりたくてやってるし。

喜んでもらえたら嬉しいし、受け取ってもらえたら嬉しいし。
何を贈ればいいかわからないときに自分が好きなもの渡してしまうのとか完全なエゴだよなぁと思うし、サプライズとかお祝いしたいとかって自己満足だよなぁと思うし。

与えてるようで、受け取ってもらうことで与えられている。
というか、受け取ってもらうこと自体与えられている。
なんなら受け取ってもらえなくても、贈りたいと思うだけで与えられているかも。

わかりやすい与える与えられるっていう行動だけでなくて、すべての言動が何かを与えつつ与えられているのかもしれないと思う。

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