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「何が楽しいか」って答えられる?

先日、コーチングセッションを受けていたときに、グラレコについて話をしていて。

「グラレコの何が楽しいですか?」
と聞かれて、とまどってしまった。

何が、なんて、考えたことがなかった。
何が、って言えるようなものだとも思っていない。

ただ、描いてるときの感覚が楽しくて好きで。
あの高揚感とか夢中になれる感じとかわくわくし続けられるのとかやりたくてたまらない感じとか、そんな感覚を「楽しい」と表現している感じ。

「推し」とか「好きな人」「好きなもの」とか「はまってるもの」とか、理屈じゃないじゃん?
理論的によいところなどが説明できたとしても、よいとは言い切れないとことか、デメリットや欠点とかがあったとしても、そこも含めて好きだったり、むしろそんな風によいと言えないところが愛しかったりするじゃん?
楽しいとかおもしろいとかも、同じようなものだと思う。

楽しいとか、好きとか、おもしろいとかって、説明しろと言われたらできなくはないけど、うまく言語化できない部分も大きいなぁと思う。
言語化できることもあるのだけど、言語化したそれらはその楽しさや好きさなどをあらわせてないなぁと思ってしまう。

聞かれて説明できるのって、わかりわすく言語化できるようなものだけだ。
でも、「何が?」って言われることって、言語化できるような一部の要素だけで説明できなくて、すべてをひっくるめて楽しかったり好きだったりする。
だから、聞かれたら答えは言えるけど、その答えは問いへのほんとの答えではない気がしてしまう。
間違ってはないけど合っているのでもない、というような、答えでもあるけど答えじゃないような、そういう感じ。

言語化して説明できるところを答えて、確かにその要素はあるのだけど、要素を取り出して語るのは、全体性をうしなってしまうように思う。
全体性の中のその要素ではなくなるというのとか、そもそもその全体性が語られなくなってしまうのとか。
そういうのが、なんか違う、なんか答えと言い切れない、そういうものになるのだろう。

間違ってはないけど正しくもない、そんな感じを、否定もできなくて、肯定もしづらく、もやっとしてしまう。

言語化できないものを説明しようとすると、説明してみた一部のことをさも理解されたようになったりして、そうやって話すのは、どんどん本質から離れていく気がして、もどかしくなってしまう。

頭で理解できる、楽しいものだろう、興味惹かれる好ましいところだろうというような、理論的な説明は、あくまでも理論で一般的なもので、個人的に、楽しい!好き!ってなる感覚とは違うものだと思う。
何かしら伝えるためには、一般化しての言語化は必要だとも思うけど、でも、感覚的はところは、結局その人が体験しないとわからないことだ。

「何が楽しいの?」って聞かれたら
「全部」「何が楽しいかわからない」とか
「楽しいから楽しい」とか
答えにならない答えでいいんじゃない?とも思う。

だって特になんかこれだとか言えないくらいに、楽しいし好きだしおもしろいし、そう感じるものはそうだから!くらいのものだから。

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