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「なりたい自分」と「ありたい自分」。

先日受講したキャリアコンサルタント更新講習の中で、「なりたい自分」と「ありたい自分」の違いは何か、という話が出た。

そのときに、講師の方が、JDCAの委員長かどなたかの言葉を引用されて違いを話されて、それがやかりやすくしっくりきた。

「なりたい自分」は、他人からこう見られたい、評価されたい、承認されたい、というもの。
「ありたい自分」は、持って生まれた使命、これをするためにここにいるもの、その人の中核をなす大事なもの、自分の中から生まれている・湧きあがっているもの。

「なりたい自分」を考えるときには愛おしさを感じない。
「ありたい自分」を考えるときにはその自分に愛おしさを感じる。

あまり違いを気にせず使う人もいると思うけど(それは言葉の定義と使い方の話なので意図してることがわかればそれでもいいとも思うけど)、こう比べると、考えておきたいのは「ありたい自分」の方だよね。

しっくりくるなと思ったのは、「愛おしさ」というところ。
愛おしい、ではなくてもいいけども、そういう、落ち着いたじんわりした感情を覚えるイメージだなぁと思って。

他人からこう見られたいとか評価や承認を求めるようなものって、人や人基準のものと比較してよいと思える!という感じで、じんわりとは対極な、高め勢い強めな感情がわくイメージ。

それは、たとえて言うと、出汁のしみじみしたおいしさを感じるのと、甘味とか塩気とか旨味がつんとしたアッパーな味のおいしさとの差、みたいに思う。

「ありたい自分」でいる人、「ありたい自分」がわかっている人って、やっていること自体は楽しそうおもしろそうにやっていたりするけど、テンション高かったりアッパーな感じはなく、フラットにいるような気がする。
自分自身がそうであることがあたりまえで、盛り上がったり昂ったりするものではないのだろうと思う。

教えていただいた話では、他人視点と自分の内というような対比だったけど、それは結局、自分の外と中、自分の外と自分自身ってことかなぁとも思う。

他人視点でどんな自分がいいかを考えているのは、基準が他人や他人との比較で、自分の外にあるし。 
人から見えて判断できる部分でしか考えられなくて、外側を見ている感じがする。

他人視点でなくて、自分の中から出てくるように感じるものでも、テンション高めの勢いのある感情が湧くものってあると思う。高揚感、わくわくする、楽しい、おもしろい、みたいな。
それは、自分の中から出てきても「自分自身」ではないのではないかなぁと思う。
自分がしている行動とか、その結果にたいしての感情なのではないかと。
だから、その段階ではまだ掘り下げ足らなくて、「ありたい自分」にたどりついていないのではないかな。
そのテンション高めアッパーな感じの感情をとおって行く先の自分、もしくはその行動を生み出す自分、というのが「ありたい自分」なのではないかと思う。

だから、「愛おしさを覚えるか」というのは、「ありたい自分」のイメージが自分にフィットしているものなのか、という判断基準としてわかりやすくていいなと。
愛おしさ、というような感情にならないときには、もっと掘り下げて自分を考えてみれるときなのだと思う。

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