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アセクシュアルと性的な話/『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて』を読む 第2回

デッカー著『見えない性的指向ーアセクシュアルのすべて』を読む、の2回目です。

この本のいいところは、大切な情報がぎゅっと詰まっているところです。
パート1「アセクシュアリティの基礎知識」は、20ページに満たない短い章ですが、この程度の情報でさえ、2年前のわたしはネットで見つけ出すことができませんでした。

日本におけるアセクシュアルの認知や情報が極端に少ないことの弊害は、こういうところにあります。
わたしはこの20ページ足らずの情報があれば、アセクシュアルという言葉に出会ってから半年以上悩まなかったと思います。

パート1はまず、“基本的な説明”から始まります。
・アセクシュアルとは
・私たちについての誤解
・私たちはこんなことはしません
・私たちはときどき、こんなことをします
・周囲の人にお願いしたいこと
見開きにして1ページ。
このページだけでも、ありとあらゆるジェンダー/セクシュアリティの解説に必ず入れて欲しいものです。

アセクシュアルは性的指向で、現在人口の1%に当てはまるといわれています。(p.17)

この数値は、イギリスで1万8千人を対象に行われたリサーチをもとにしており、後続のほかの調査結果を合わせて考えても、信頼に値するとされています(p.  23)。
正直なところ、この数には驚きました。100人に1人がアセクシュアル。
いくら平等分布ではなく、集まるところには局地的に集まっているだろうといっても、そんなにいるのです。だって、日本のクリスチャン人口は1%未満、プロテスタントだけでいえば0.3%といわれています。
日本にいるアセクシュアル人口は、日本のクリスチャン人口よりも多いのです。
そのうちの多くの人が、「自分は何か他人とは違うらしい」「普通に振る舞わなくては、排除される」と感じながら生きているのかと思うと、薄ら寒くなります。

日本人にとって性的な話というのは、冗談や下ネタ以外では、未だ扱いにくい話題であるように感じます。クリスチャンであるというのは、それに話をかけて、性的な話題から遠ざかる状態です。
クリスチャンが性を下品に扱うのが憚られる、というのはわかりますが、一方で「性欲などまったく感じません」みたいに、性的な話題をタブー視するのもどうなんでしょうか。

この本を読んでわたしが軽く驚いたのは、「性愛者の人たちは、性交渉が生活の基準のど真ん中にある」ということです。アセクシュアルの人が性交渉をしない、性交渉を望まない、性交渉に興味がない、というだけで、周囲から非人間扱いをされ、性交渉を強要され、変人扱い、欠陥扱いをされる、という事例が、山のように書かれています。
誰かに対して“性的魅力を感じない”というのは、つまり誰かと“性交渉をしたいと感じない”ということと、同義です。
当然でしょうか。
誰かと性交渉をしたいと感じたことのないわたしは、それを文字化されてとても驚きました。だってわたしの周囲の人たちが、それほど性交渉を中心に人を見ているなんて、思ってもみなかったからです。

ここでいう“性的魅力を感じる”というのは、“性欲がある”とはイコールではない、というのは大切なポイントです。著者が説明するのは、アセクシュアルは性的指向が向く相手がいない、ということであって、心身の健康状態とはまったく関係がないということです。

私たちアセクシュアルの人の中には、恋愛をしたい人も、そうでない人もいます。セックスをしてもよいと思う人も、そうでない人もいます。処女童貞の人もそうでない人もいます。自慰をしたり、性欲があったり、子どもを欲しいと思う人もいます。(p.19)

ここまではっきり書かれているのを、わたしは初めて見ました。日本語でわたしが見つけられたネットの情報では、アセクシュアルの人の性生活について書かれたものはありませんでした。まるでアセクシュアルの人は、“穢れた大人の世界を知らない、無垢な子ども”のような扱いをされているようです。当然のことながらそんなのは幻想で、人は小学生のうちに下品な冗談を楽しむようになります。本当に汚れがないのは、生まれたての赤ん坊くらいです。

日本語のネット情報ではあまり見かけず、しかしアセクシュアルの入門書のはじめに書かれていることは、アセクシュアルは崇高な思想や宗教的な純潔の誓いではなく、どのような実践をするかでもなく、ただ単に、「そういう感覚が起こらない」という状態である、ということです。
アセクシュアルかどうかに、身体の健康状態は関係ありません。
身体に特定の病状が出ていないのであれば、生まれもったホルモンが正常に働くのは当然です。適齢の女性であれば月経があるし、PMSに苦しむし、妊娠も可能です。そのための機能が、すべて備わっています。そして心や精神の状態は、往々にして身体の状態に影響されます。
「他人に性的魅力を感じないこと」と、「身体的な機能として性的な活動があること」は、まったく矛盾なく両立します。

わたしはアセクシュアルという言葉に出会った当初、このことがわかりませんでした。アセクシュアルとは、性的なものを全て忌避する、一種の純潔主義的なものなのではないかと考えていました。選ばれたほんの一握りの人しか、条件に当てはまらないのではないかと考えていました。
でもそれは間違いです。そしてわたしの間違いは、世間一般の人が「アセクシュアルとは、性欲がないこと」というざっくりした説明を聞いて(この時点で「性的魅力」と「性欲」がまぜこぜになっています)感じる誤解、そのままでした。

この本を読んでいくとわかることですが、アセクシュアルについて語るとき、そこにはものすごく細かくて繊細な線引きが存在します。セクシュアルの世界では普段話題にのぼらないような、一般的な概念をていねいに解体して、自分に当てはまるかどうかを検討していきます。
例えば「性欲」と「愛情」と「性的魅力」の切り分けも、そのひとつです。
細かく細かく分析していかなければ、自分がどういう存在なのか、説明が難しいからです。
これは逆に、セクシュアルの世界観が社会通念として機能していて、それが「共通で誰もが実感できる」とみなされている、ということができます。

アセクシュアルの人が自分のことを知るためには、言葉による説明が必須です。
身体の性的欲求とアセクシュアルであることが無関係であること。
文字にしてたったの1行で済む説明が、ほとんどなされていないということ。
性に関する事柄がタブーとされ、知識が共有されず、下品な笑いの中にのみ存在すること。
一般的な共通理解、と思われていることが、実はとても曖昧で、何も説明してくれないということ。
そのために苦しむ人がいるということ。

何度でもいいますが、情報は大切です。
恋愛感情を持たない人、他人をセクシーだと思わない人、そのために自分はおかしいのではないかと悩んでいる人、周囲に理解されずに苦しんでいる人。
そういう人たちに、この本に書かれている情報が届けばいいと思います。
考えてみた結果、アセクシュアルではないかもしれません。それでも、自分自身の状態について、より細かく分析して考えることは、無駄ではないはずです。

Makiのコーヒー代かプロテイン代になります。 差し入れありがとうございます😊