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『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて』を読む その1

ジュリー・ソンドラ・デッカー著『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて ー誰にも性的魅力を感じない私たちについて』(明石書店,2019)を読み終わりました。
全体的に共感する部分が多く、情報量も多く、時間はかかりますが読みやすい本でした。アセクシュアルの人、アセクシュアルかもしれない人、アセクシュアルの知り合いがいる人、アセクシュアルもしれない知り合いがいる人、なんだかよくわからないけど自分は周りと違うと感じている人に、お勧めします。

しばらくの間、この本を読んで感じたこと考えたことなどを、自分の体験も交えつつ、少しずつまとめていこうと思います。

著者のデッカーは自身がアセクシュアルで、そのためにこれまで数々の困難を抱えてきました。恋愛とセックスにまつわる社会通念や周囲の期待によって抑圧されてきました。デッカーは、自身の経験をネットでシェアしていくうちに、「アセクシュアル」という概念と出会います。
アメリカでは、2000年にAVEN(Asexuality Visibility and Education Network=アセクシュアリティの可視化と啓蒙のためのネットワーク)が設立され、ネット上でのアセクシュアルの交流や活動が活発になっているようです。いまや、少なくとも英語話者の間では、アセクシュアルに関する体系的な、包括的な知識と、個人的な体験の情報にアクセスすることは、容易になっています。
しかし、デッカーがこの本を書いたのは、“書店や図書館で気軽に手にすることのできる、普通の言葉で書かれた比較的簡単に読める本が必要だと考え”たからです(p.14)。

情報は大切です。
少しネットの検索知識があれば、自分が「どうしても探したい」と思っている情報は手に入るでしょう。でも、それだけのニーズを感じて、いろいろな検索ワードを試してみるのは、よほど切羽詰まった人だけです。アセクシュアルについて散々調べていた、当時のわたしのように。
一方で本であれば、書店や図書館をぶらついたり、あるいは電車の中の吊り広告で、求めていなくても偶然目にする可能性が高まります。死ぬほど切羽詰まっていないけれど、困っている。そういう人が、切羽詰まって死にそうになる前に助かる道を、本との出会いは切り拓いてくれます。
どうかこの本が、こういった情報を求めている人に届きますように。

序文を読む

ネットを通じて自分の性的指向がアセクシュアルだと気づいた人は、大きな安堵感を覚え、顔の見えない読者に向かって、自分の体験談を大いに語り始めます。自分一人ではなかったことに大変感謝しているのです。自分の属するコミュニティを発見することは素晴らしいことです。しかし、そこに辿り着くまでの年月は絶望と長年にわたる不安と恐れの連続です。徹底的に過小評価されたり、万人に必要で自然なこととされる(性的な)方法で人とつながることができないと非難され続ければ、自分自身を拒絶し憎むようにもなります。(p.15)

これはまだ序文ですが、あまりにも自分の状況に当てはまって、目を見開きました。少しずつ見ていきましょう。

1. ネットを通じて

わたしの場合も、「アセクシュアル」という概念に出会い、それが自分だと受け入れたのは、ネットを通じてでした。
もう3年ほど前になりますが、ツイッターで連載されていた、えいくら葛真さんの『セーラさんはトランスジェンダー』(のちに『青春マイノリティー』と改題 ) に出会って読み始めました。トランスジェンダーでゲイのセーラと、幼馴染で恋人になった武一と、その周辺のマイノリティーの人たちの物語です。
わたしにとっては、初めて出会うマイノリティーの概念がたくさんあり、とても勉強になりました。いつも楽しみに連載を追っていましたが、同時に、「これだけたくさんのマイノリティーの人がいるのに、みんな“誰かを愛するって、恋をするって、すばらしい!”としか言わなくて苦しいな」と思っていました。(しばらくして、アセクっぽい登場人物が出てきたのでとても嬉しくなりました。)
えいくらさんのツイッターをフォローしているうちに、ぽつぽつと性的マイノリティーのツイートを目にするようになって、あるとき「アセクシュアル」という言葉に出会いました。どのツイートだったのか、どんな文脈だったのか、まったく覚えていません。でも、その言葉が気になって、ほかのツイートを追いかけていきました。
そこでようやく、「誰にも恋愛感情を抱かない、という性的指向がある」ということを知りました。
何年も抱えていた不安が決壊して社交不安に陥り、自己嫌悪と罪悪感に苛まれて、泣き続けるようになってから、1年以上が経っていました。

アセクシュアルであることを、すぐに受け入れられたわけではありません。
そもそも、ネットでは日本語でまとまった情報が見つけられませんでした。あったとしてもLGBTQ関連のサイトの用語説明で、「アセクシャル:恋愛感情や性的欲求を持たないこと」程度にしか触れられていませんでした。体験談も見当たりません。これが自分に当てはまるのか、それとも自分はアセクシュアルとは違う、さらに特殊な何かなのか、判断がつきませんでした。
折を見ては検索をして情報を探していましたが、そもそもどの団体の情報が信頼できるものなのかもわかりません。
でもあるとき、英語のサイトで、「アセクシュアルであることのサイン」が箇条書きにされているのが見つかりました。ひとつひとつ読んでいきました。当てはまるものも、当てはまらないものもありました。
その中に、わたしがずっと「これの為にわたしはアセクシュアルではないかもしれない」と思っていた内容があり、「アセクシャルの人は、こういうことが起こり得ます」と肯定されていたのです。

涙が出ました。
外出中だったので泣きませんでしたが、泣き崩れるかと思いました。
わたしにもちゃんと名前があった。名前がつくだけ、同じような経験をしている人がいた。大丈夫だ、わたしみたいな人は、他にもいる。

アセクシュアルという言葉に出会ってから半年、わたしはようやく大きな安堵感を覚えました。

2. 自分の体験を大いに語り始める

この本はアメリカで出版されたので、ベースとなるのはアメリカ(英語圏)でのアセクシュアルの状況です。序文で書かれているように、英語圏では2000年からAVENというアセクシュアルのための啓蒙と交流のためのプラットフォームがあり、そこではアセクシュアルの人やそうではないかと思っている人たちが、情報交換をし、お互いの経験を語り合っています。
一方日本では、少なくともわたしは、アセクシュアルに特化したプラットフォームは知りません。AVENは英語以外の言語にも多く翻訳されていますが、その中に日本語は含まれていませんでした。
わたしは、アセクシュアルであると自認する前からこのnoteをつけはじめました。どこかで自分の抱えたものを吐き出さないと、潰れてしまうと思ったからです。幸いなことに、わたしの書いたものを読んでくださる方がいます。誰が読んでいるのか、読んだ先でどんな反応をされているのか、一切見えないのは怖さもありますが、不特定多数の(おそらく性愛者の)目に晒される恐怖よりも、自分の抑圧された絶望をぶつけてやりたい気持ちのほうが強いのです。そしてまた、ほんのわずかな、同じような悩みを抱える人に届けばいいと思っています。

3. 自分の属するコミュニティを発見すること

わたしは自分が属するカテゴリは見つけられましたが、まだコミュニティを発見できていません。いずれAVENをちゃんと見て、参加してみたいとは思いますが、新しいコミュニティに入るのがめんどくさい内向型なので、二の足を踏んでいます。
日本語で、信頼のできるアセクシュアルのコミュニティがあれば、ぜひ参加してみたいのですが……

4.絶望と長年にわたる不安と恐れの連続

まさにその通りです。
先日、複数の友人に初めてのカミングアウトをしましたが、そのときの反応は、アセクシュアルの人が日々感じている抑圧を少し表していました。
ある人は、「それはそれで素晴らしいことだよ」といいました。またある人は、「別に悪いことじゃないし、自分を追い込まないで」と言いました。
友として、真剣にわたしの話を聞いてくれたと思います。
でも、彼らはわかっていないのです。わたしがこれまで、久しぶりの会話で必ず聞かれる「ねえマキちゃん、最近いいことないの?」「○○ちゃんもついに結婚か〜。マキちゃんはどうなの?」「え、その人オトコ!?マキちゃんがオトコの話してる〜!」といった発言の数々が、わたしの精神を削り、自己否定感を育てていったことに。
アセクシュアルが感じる社会の抑圧は、おそらくそうでない人には計り知れないでしょう。物心ついたときから、人が育つ環境には恋愛の物語が溢れかえっています。それはメディアもそう、エンタメもそう、学校も社会もそう。その中で、そういう会話ができることは、人間関係を築いていくための必須項目です。

わたしは今でも忘れられません。
久しぶりに会った、結婚したての友だちの「マキちゃんは最近何かないの」に「別に何も」と答えた瞬間、彼女のテンションが冷めきったのを。表情がスッと冷たくなり、そのあとわたしとは会話をしなくなったことを。
なぜ、恋愛話をしないことが、心を閉ざすことと同義にとられなければならないのでしょうか。

わたしは、そういう世界で生きています。
同じように感じている人が、世の中にはたくさんいるのでしょうか。
この苦しみを、不安を、恐怖を、いつも感じます。アセクシャルという概念を得たことで、自分を守るためのマントが一枚、ようやく手に入っただけです。

以前の記事で、わたしが悩んだこと、感じた葛藤、恐怖を、色々とまとめました。そういう気持ちは、今は一旦しまい込んでいるだけなのだと思います。
先日のカムアウトの前の改めて読み返したら、その時の苦しみは今もほとんど風化していないことがわかりました。いつまで引きずっているんだ、という気持ちと、これは一生消えないかもしれない、という穏やかな絶望に包まれます。

おわりに

まだ序文に少し触れただけなのに、これだけの思いが溢れ出てくるなんて、どれだけ溜め込んでいるんでしょうね。自分でも驚きです。
それだけ普段、考えていることを言葉にする機会が少ないのだと思います。

これからまた、読んだ内容やそれで思い起こしたことなどをまとめていきます。これが何かのきっかけで、誰かの助けになれば幸いです。

人を好きにならない人、愛情が何だかわからない人、恋愛に興味がない人、そのせいで、周囲の理解が得られずに悩んでいる人。
わたしたちはひとりではありません。いつかわたしたちが、自分のことを語るのに適切な言葉を、得られるようにと願っています。


Makiのコーヒー代かプロテイン代になります。 差し入れありがとうございます😊