目覚めた吉幾三と「新実在論」 ポストモダン以降の哲学
https://note.mu/maki_ayaka/n/n72d40c664a03 私とポストモダン そして「第三舞台」
前回までは、マルクス・ガブリエルによる哲学史講義を引きながら、「実存主義」「構造主義」「ポスト構造主義」「ポストモダン」とは何だったのかを駆け足におさらいした。
ポストモダンのキーワードは「多様性」と「差異」。「多様性」は希望も生んだが、「あなたの物語と私の物語は違う」という寂しさも生んだ。絶対的な「事実」などない。解釈の違いだけが存在する。だからお互いに戦うしかない。これが90年代の「感覚」だった。そこに劇団「第三舞台」の芝居はカチッとはまったのだ、というのが当時大学生だった私の印象である。
さて、「新実在論」である。「新実在論」とは、マルクス・ガブリエルが提唱する「ポストモダン以後の時代に対する名前」である。グローバル経済とSNS時代の哲学。
既存の構造から「脱」却したものの、これからどうするの? 「物語の終焉」と言ったって、物語がなくて生きていけるの? 「新実在論」はそんな私たちの不安に答えを与えてくれるのだろうか?
「新実在論」とはいったい、どんな哲学なのだろうか。マルクス・ガブリエルの著書「なぜ世界は存在しないのか」(2013)を理解するために、ここでも分かりやすい解説書のお世話になる。
「いま世界の哲学者が考えていること」 岡本 裕一朗著 ダイヤモンド社 2016/9
ひとことで言うと、「新実在論」とはこういう哲学だった。
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「実体もねえ、現実もねえ、たまにあるのは差異だけだ」ではなく、「すべてが在る」のだそうだ。
なんてことだ。21世紀最先端の哲学者マルクス・ガブリエルは「目覚めた吉幾三」だったのだ。
静岡にいるAさんが見ている富士山も、山梨にいるBさんが見ている富士山も、同じく山梨にいるCさんが見ている富士山も、そして富士山そのものも、すべてが「在る」。すべてが同時に存在しているということだ。
さらには、富士山を見ている時に感じているCさんの秘密の感情も存在しているとガブリエルは主張している。物理的な対象だけではなく、「心」も「空想」も存在していると考えるのだ。
この「新実在論」は、ポストモダン以降の時代を生きる私たちのどのような要請から生まれて来たのか?
それはドナルド・トランプの「イメージ戦略」への対抗である。ドナルド・トランプはポストモダンのソーシャル・プラットフォームであるツイッターを利用し、私たちにこう考えるように仕向けているからだ。「あなたは現実を知ることはできない。わたしが提供しているイメージだけが、あなたが知り得る世界なのだ」
絶対的事実も道徳も存在しない。SNS上でイメージされたもの以外は存在しないに等しい。あなたは私が与えるニュースを受けとるだけで、その裏にある事実を知ることはできない。
だから、あなたはシリアの内戦について、何も知ることができない。気候変動の事実も、知ることができない。経済危機の事実も知ることもできない。したがってあなたは何も変えることができない。
「新実在論」は、このような考えを私たちに植えつけるポストモダンの独裁者、ドナルド・トランプへの対抗から生まれたと言ってよいだろう。
明白な事実は存在する。普遍的な道徳も存在する。
以下に「マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する」からP156ページを抜粋する。
僕らは、今こそ、本当の事実を見つけ出すため、人類全体として力を合わせはじめなければならない。経済的事実、宇宙に関する事実、そして道徳的事実。もし僕らが、何が事実か、何が明らかな事実かを知りさえもしなければ、民主主義の出番など絶対にないだろう。なぜなら民主主義とは、乱暴に要約すれば、僕が「明白な事実の政治」と呼ぶものに基づくべきものだからだ。(中略)つまり特に「現実がどのようなものかを知ることなどできない」という幻想を乗り越える解釈、この基礎の上でのみ、僕らの時代における大いなる疑問に答え始めることが出来る。
「新実在論」は、民主主義のための哲学だった。
相対主義を利用して私たちを無力化しようとする独裁者に対抗し、もう一度「主権」を私たちの手に取り戻そうとする運動だったのだ。
次回は、第三舞台が90年代の不安に寄り添ったように、「ポストモダン以降の時代」にフィットする物語は生まれているかについて考察するかもしれません。
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