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目の前の困難はチャンスと捉えよ

左遷の憂き目

前回は、伊能忠敬の人生に影響を受け、50代での博士取得から、アカデミックの世界への転職についてお話しました。
しかし、伊能忠敬に触発されたのは、「年齢に関係なく新しいことに挑戦すべき」ということが、正確な表現かもしれません。

安定した県庁職員の立場(特に地方では)から転職という行動を起こしたのは、伊能忠敬に触発された「新しいことへの挑戦」よりも、立命館アジア太平洋大学の元学長の出口治明先生の影響が大きかったのです。

人生においての、転機はさまざまです。
私の場合、その決定的なできごとは「左遷」でした。

県庁でデジタルやデータ分析の業務を担当していた私は、自分の得意分野でやりがいのある仕事をさせてもらっていることに、非常に満足していました。
なので、社会人大学院生として修士課程で学びはじめたのも、県庁の管理職としての仕事に活かすための、知識の棚卸しが目的であり、転職の「て」の字も、修士入学時にはありませんでした。
30年近くの県職員生活の中で、この得意分野での部署で20年近くをすごしてきました。専門的な知識を持っていたが故の、人事だったと思います。

得意分野で楽しそうにいきいきと仕事をこなす。
その仕事のやり方が、一部の職員からは許せない存在だったようです。
そうした連中が知らないところで手を回し、ついには左遷されることになりました。

具体的には、本庁の課長補佐級から出先の課長補佐級への異動という形です。
こうした人事は、給料表の格下げが行われる降格ではないため、人事課は単なるジョブローテーションだと言い訳できます。
なので、県庁では、よく見る人事です。

内示の一覧表を見て、なんで?と多くの方が違和感を抱く人事が、わたしの旧勤務先の県庁ではよく見られました。
職員のモチベーションを下げる以外、なにも生み出さないのに、なんで人事課はそういう人事を行うのか?
いまだに理解できないのですが、人事課職員も保身のために、そうした手をまわしてくる圧力に逆らうまでのことはしないのでしょう。
形式要件が整っていれば、淡々と処理する。
わたしのいた県庁の人事は、そうした手法をとっていました。なので、さまざまところで、ほころびが出てきています。

わたしの出先機関への異動も、明らかな嫌がらせ人事でした。
国家公務員のキャリア職みたいに退職することはありませんが、もう少し上の、課長級になると、本庁、出先の振り分けは、ポストが限られるので、わたしの勤務していた県庁でも普通に行われていました。(これについては、ほとんどの職員も違和感を持つことはなかったと思います。)

こうした左遷人事は、公務員の世界では特に珍しいことではありません。
県庁でよくある例が、知事選挙で2つの拮抗する派閥が争った場合です。
応援する側を見誤った幹部は、冷や飯を食わされます。

20年近く前の話になりますが、宮崎県で官製談合事件があり、当時の宮崎県知事が逮捕・辞職しました。
その辞職に伴う知事選で知事になったのが、あの東国原英夫氏です。

この官製談合事件で辞職した知事は、元宮崎県職員の方で、知事選に立候補し、一度落選。
その4年後の選挙で、見事に当選しました。この時、宮崎県の幹部職員を2分する戦いになり、落選候補の応援に回った県職員は軒並み出先機関に左遷させられたのです。
この元県職員の知事は、人事課長もやっていたらしく、報復人事は、かなり酷いことをやっていたようです。
なので、官製談合事件に関わった県職員の幹部(当選知事をプッシュして幹部に登用された方たちですね)も、逆らった(官製談合に)ときの報復人事が怖かった(敵の候補を応援して、粛清人事を目の当たりにしたからでしょう)、、、、と、新聞の取材に応じていた記憶があります。

公務員が選挙に関わること自体、地方公務員法違反になります。
もう少し、マスコミも、その辺りを追求した方がいいと思うのですが、、、

地方公務員法違反にも関わらず、県庁幹部は選挙好きです。
ただし、その選挙の応援で失敗した幹部職員に一度「バツ」がつけば、よほどのバック(県会議員)がいない限り、復権の可能性はありません。
部長級の職員が応援する陣営を間違えると、図書館長や博物館長に飛ばされます。
再就職先の斡旋もなく、事実上、県職員としての旨味のあるキャリアは終焉を迎えます。

左遷人事は、旧帝国陸海軍でも頻繁に見られました。
私の専門は経営学で、経営組織論の中で旧帝国陸海軍の組織上の課題についても研究に取り組んでいます。
県職員の頃から、特に江戸末期から昭和にかけての近現代史が好きで、軍関係の資料を読み込んでおり、軍人の抜擢や降格人事の主なものは把握していました。
例えば、マレーの虎と呼ばれた山下奉文将軍は左遷により軍中央から遠ざけられ、最終的に戦争犯罪人として裁かれてしまいました。彼の場合は皇道派と目されたことと、人事権を掌握した東條英機に疎まれた、左遷人事の結果です。

一方で、左遷で命が救われた軍人もいます。
私が着目しているのは池田純久中将という方です。彼は関東軍の参謀から左遷されて軍から追いやられましたが、最終的には内閣総合計画局長官として、終戦の聖断がなされた1945年8月10日未明の御前会議に列席しました。戦後は戦犯に問われることなく、東京裁判で梅津美治郎(元関東軍司令官)の弁護人を務めました。

まあ、県庁職員で人事で命を落とすことは(あまり)ありませんが…。

私の左遷人事の背景には、相当な憎悪が絡んでいたようです。
似たような部門での勤務が長かったため、一部の職員から嫉妬や恨みを買っていたというのを、左遷させられた後から知りました。

多くの県職員は3年ごとに異動し、新しい分野で一から仕事を覚えなくてはなりません。税務から、土木、そして福祉などと、ベースとなる法律がまったく異なる分野での仕事です。
いわば、3年毎に、まったく新しい職種に転職を繰り返し、仕事を覚えることを繰り返す状況なのです。

これは、相当のストレスを抱えることになるようです。
わたしも、デジタル系以外の仕事も担当することはありましたが、システム構築の知識をフル活用し、そうした新しい仕事も、システムの仕様書を作成する形で整理をしてきました。そして、ルーチンの作業は自前でシステムを構築し、特に残業もすることなく、仕事を処理していました。

システムの仕様書は、そのまま自分の仕事のマニュアルにもなるため、本来であれば、県職員全員がこういう仕事を身につけるのが良いのではないかと思いますが、、、

話を左遷に戻しましょう。
私は行政職での採用にもかかわらず、専門家として得意分野で楽しそうに仕事に取り組んでいる姿が目立っていたようです。
何度か、面と向かって、「同じ仕事ばかりでズルい」と言われたことがあります。

「なら、あなたを私の後任に推挙しますよ?交代しますか?」

と言うと、それは無理という。

スキルがないからその自分は無理という判断は、正しいと思うのですが、そのポジションを奪い取るのでなく、引きずり落とす。
こういうことを裏でやるのが、県庁職員の恐ろしいところです。

庁内イントラネットに出された内示に、わたしの名前が出先機関に掲載されているのを見た時、そこで初めて「やられた」と気づきました。

仲良くしてもらっていた部長も、その人事に驚いたみたいで、すぐに状況を確認してくれました。

「その出先の仕事も、大事な仕事とは思うが、、、なんで、わざわざあなたが出先でその仕事をする必要があるのか?」

その部長の最初の一言です。

部長が調べてくれた結果は、課内の人事担当者(所属長と総括課長補佐の二人)が
「本人に経験を積ませるために、今までに経験したことのない業務に異動させるべき。特に、情報システム、データ分析系以外の部署に」
と、人事課に提出する内申資料に記載していたことが判明しました。

一方で、秋口に全員に行われる、課内の人事担当者との面談では、来年も残ってもらいたいと思っている。と、その二人は明言していました。
おまけに、人事異動の内示のあと、個室に呼び出され、自分たちも、このような人事に驚いている、、、とまで、わざわざ言ってきました。
たぶん、自分たちが私の左遷の原因、と疑われるのがいやだったので、保身の言い訳に走ったのでしょう。

公務員の場合、一度発令された人事は撤回されることはなく、不服ならば辞めるしかありません。
辞めないのであれば、その後のアクションをどうするか?直接的な犯人は二人、特定できているので行動あるのみです。

そこで私が取ることができる選択肢は、
①県会議員などに手を回して、左遷を手引した所属長と総括課長補佐の二人に対する仕返し人事を仕掛ける
②自分の専門を活かして、県庁という組織の人事にちょっかいを出されない新しい道を切り開く(県庁に見切りを付ける)

の2つでした。
そして、私は②の方法を選択しました。

出口治明氏の左遷の経験

この時、私の決断に大きな影響を与えたのは、ライフネット生命保険株式会社創業者であり、立命館アジア太平洋大学元学長の出口治明氏でした。
リベラルアーツ系の多くの書籍を書かれており、出口氏の著作を読まれた方も多いのではないかと思います。

出口氏は、大学卒業後に日本生命に入社。企画畑を中心に経験を積まれ、ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て、58歳の時に同社を退職。一見、順風満帆に見える氏の社内経歴ですが、55歳で子会社に片道切符の出向を命じられました。

以下、朝日新聞 2018年9月12日の記事から引用します。

「日本生命保険で働いていた出口さんは55歳の時、ビル管理会社に出向した。友人には『ひどい左遷人事だ』と怒る人もいた。

きっかけは、社長との意見対立だった。国際業務部長だった1996年、海外での売り上げを大幅に拡大する目標を掲げた計画を策定した。少子化で縮小する国内市場の代わりに、収益の柱にする狙いだった。経営陣も計画を支持した。

翌年に、『今は国際化は不要。国内に注力する』という考えの新社長が就任した。
出口さんは国際展開の必要性を訴えた。社長の側近からは『社長が怒っている。すぐに謝れ』と連絡が入ったが、何もしなかった。

『僕は自分の腹に落ちたことでしか行動できない。間違っていました、といわなかった瞬間に人事の流れは決まったんです』

悔しくなかったですか?

『平静でした。組織の人事とはそういうものです。社長や役員になるのは一握りだから、多数派になったと思いました。済んだことを愚痴って状況は変わりますか? 僕は合理的に考える性質です』

朝日新聞 2018年9月12日

これはまだ、私が県庁で、まさか左遷の憂き目にあうなどとも知らず、日々の仕事に取り組んでいた時期の記事です。
私はこうした仕事への取り組む姿勢に関する文献なども、趣味の仕事術の一環としてスクラップしていました。

出口氏はこのように日本生命での華々しいキャリアを持ちながらも、左遷を経験し、それをきっかけに新たな道を切り開いた人物です。
私は彼の人生には多くの学びがあると考え、氏に関連する気になった雑誌や新聞記事もEvernoteにクリップして、#出口治明 というハッシュタグを付けて管理しています。
出口氏以外にも気になる人物については、その生き様をEvernoteに放り込んだり、スクラップ帳に貼り付けたりしています。こうした情報管理のテクはまた別の機会にご紹介しましょう。

この出口氏の人生も、先に紹介した伊能忠敬と同じように、55歳という年齢がキーワードになってきます。
55歳というのは、私の中で意味のある年齢なのかもしれません。

出口氏は、この55歳の時の左遷を機に、日本生命に見切りをつけ、新たな挑戦に踏み出しました。
その後、彼は岩瀬大輔氏とともにネットライフ生命を設立しました。この会社は、従来の生命保険業界の常識を覆すべく、インターネットを活用した新しいビジネスモデルを打ち出しました。出口氏のビジョンとリーダーシップのもと、ネットライフ生命は急成長を遂げ、業界に新風を巻き起こしました。

そして、この成功は、出口氏のキャリアに新たな光をもたらしました。
彼の豊富な経験と膨大な読書量に裏打ちされた博学と知見、リーダーシップが評価され、立命館アジア太平洋大学(APU)の学長に推挙されたのです。

大学では、グローバルな視点と実践的な教育を重視し、多くの学生に影響を与えました。出口氏のキャリアは、50代での逆境を乗り越え、新たなチャンスを掴むことの重要性を示しています。

新たな挑戦への決意

自身の身にふりかかった左遷を前にして、Evernoteに保存しておいた出口氏の経験は、私にとって大きな励みとなりました。
内示のあと、私の頭には、「これは出口氏と同じ境遇ではないか」という考えが浮かびました。
ということは、左遷という逆境に立たされた時、彼のように新たな道を切り開くことができるのではないかと、その考えが広がっていきました。

その時、幸運にも、私は大学院の博士課程に籍を置いていました。
しかし、それまでは純粋に学問を追求したいという思いしかありませんでした。

しかし、左遷を機に、嫉妬が渦巻く県庁という組織に見切りをつけ、自分のもう一つの軸足である研究に、100%の力を入れるべきだと決意しました。

県庁に見切りを付けて、自分の専門知識を活かし、だれにも邪魔されない研究と教育の分野に進むことの決意です。
県庁職員として転職することで、そのキャリアとブランドを活かしつつ、新しい視点で社会に貢献できると感じたからです。

そこで、博士課程の研究においては、元公務員として実務経験をかけ合わせた、研究成果を上げることに注力しました。県庁で長年の勤務経験のある研究者は少ないと考え、県庁職員としてのニッチな経験を自身のブランディングに活かそうと考えたのです。

そうした研究に励み、無事、博士の学位を取得した後、本当に運良く教員として新たなキャリアをスタートさせることができました。

「県庁職員としての実務経験を持つ博士」

これは、転職市場でも、大きなブランディングとして活かせたのではないかと思っています。

左遷を糧にして

私の転職のきっかけの一つは、左遷という逆境から生まれました。

たぶん、左遷されずに、そして県庁の中で専門性を活かした満足のいく仕事を続けていたら、転職というキーワードは、私の頭の中には思い浮かばなかったと思います。
しかし、左遷という初めての経験こそが、私にとって大きな転機となり、新しい挑戦への扉を開くきっかけとなりました。出口治明氏のように、逆境を乗り越え、新たな道を切り開くことができたのです。

左遷は一見ネガティブな出来事のように思えますが、それをチャンスに変えることができるかどうかは自分次第です。
逆境に立たされた時こそ、自分の真価が問われます。

年齢を重ねても、新しいことに挑戦することは可能です。大切なのは、情熱を持ち続けること、学び続けること、そして自分の限界を超えていく勇気を持つことです。
50代にして、自身の将来に迷う方は、ぜひ、伊能忠敬や出口治明氏の関係する書籍を手にされてみられたら良いのではと思います。

最後に

出口氏の左遷を経た後の輝かしい経歴は、書店の棚や、インターネットを検索しても、たくさん出てきます。
一方で、出口氏を左遷させた社長が誰か検索してみてください。

出口氏を左遷させた当時は、日本生命の社長ということで、名前を簡単に調べることができたと思います。
現在、その社長を調べてみても、簡単に特定することは難しいと思います。(私は、出口氏の55歳の年齢から逆算してその当時の日本生命社長として特定しましたが、聞いたこともない名前の方でした)

この二人(出口氏と左遷させた社長)のその後の人生を見て、どちらの人生が豊かだと皆さんはお考えになるでしょうか?

私は、アカデミックに転身して、論文を書くことで、その功績を世に残すことができます。
一方で、左遷人事の内申を上げた、当時の所属長と人事担当の筆頭課長補佐は、その後、世の中にどのような功績を残していけるのか?
10年後が楽しみです。

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