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ガリガリ君の当たり棒にまつわるトムとの愛か友情について

私には,トムとジェリーのように仲よく喧嘩するタイプの親友がいる。私は女性であり,相手は20才ほど年上のおじさんなので,親友というのは少し変かもしれないが,他にいい言葉が見当たらない。

この人をトムと呼ぶ。トムはガリガリ君の当たり棒を効果抜群のラッキーチャームだと固く信じている。話をきくと,以下のようであった。

トムは昔,ある官庁に勤めていた。その頃所属していた部内で大変なことが起きた。その大変さは,対応に明け暮れ数週間職場から家にも帰れない程であった。また同時に直接関わりのある人々がその"大変なこと"を抱えきれず自殺しないように目を配る必要もあった。体力もありばりばり働いていた若き日のトムも,数週間の高いストレスと激務にさすがに気持ちが弱ってきて,もうダメだと思い始めた。そんなある日,半日,家に帰れることになった。久し振りの我が家で風呂に入ってからリビングで一息ついていると,小学生だった娘がガリガリ君を食べていた。なにげなく見ていると,アイスを食べながら娘が「当たった」と言った。見せてもらうと,その棒には「一本当たり」の文字があった。

トムはそれを見て「これは幸運の兆しである」と直感したという。娘に頼み,その棒に日付と娘の名前を書いてもらい,その棒をもらった。

トムが言うには「それから,職場の"大変なこと"の潮目が劇的に変わった」らしい。それで,トムはガリガリ君の当たり棒を幸運のチャームだと思うようになった。

私はもともとガリガリ君ソーダ味が好きだったが,その話をきいてからというもの,ガリガリ君を食べる機会を増やした。近所のコンビニで買いだめして,おやつを食べたくなったら積極的にそれを食べるようにしたのである。

ガリガリ君がどのくらいの確率で当たるのか?インターネットで調べた情報によると,32個入りのものを箱買いすると1本当たりが入っているとのこと。計算すると1/32で,およそ3.1%だ。

ある夏にそんな風にガリガリ君を食べ続けたら,9月のある日,丁度,トムとメールのやりとりをしていたとき,1本当たった。以下はそのときのメールのやりとりである。

私「今見たらあたってた!」

トム(凄い!)(良かったね。)(交換したらダメだよ。)

私「そうなの?ラッキーチャーム?」「これあげる。」

トム(嬉しいけど,自分で持っておきな。)

私「ガリガリ君かガリ子ちゃんと交換できるって。ガリ子ちゃんって知らないな」

トム(僕も知らない)(これを手に入れてから,困難が去って行った。)

私「すごいではないですか。」

トム(凄いよ。)

私「今も持ってる?」

トム(もっと困難な人がいたので断腸の思いであげた。)

私「すごい。」

トム(清水の舞台から飛び降りた。)

私「それまでは,持ってたの。」

トム(ずっと持ってた。10数年間。)

その後もやりとりが続いたが,トムは本当に心からガリガリ君の当たり棒のちからを信じていた。私が棒をあげると言ってもトムは「君の方がこれからの人生長いのだから,その棒は君に必要なのだ」と真面目に固辞した。しかしながら私の方も,これほどガリガリ君の当たり棒のちからを信じている人が,断腸の思いで人にあげて,棒なしで生きているということに心動かされ「欲しい人(トム)が持っていればいい,とにかくこの棒はあげる」と伝えた。するとどうなったか。トムは三度目に私の勧めを受け入れ,お礼に私をステーキ・ハウスに連れて行くと言い出したのである。そのステーキはそれまで食べたことがないくらい美味しかった。それ以降,私にとってもガリガリ君の当たり棒はラッキー・チャームとなった。

その次の夏,私はトムと大げんかをした。もう会わない,口もきかない。お別れに際して私は「あのガリガリ君の棒を返して」と言った。喧嘩になると冷徹なポーカーフェイスになるトムの顔が一瞬こわばったのを,私は見逃さなかった。冷徹なトムも,ガリガリ君の棒を失うのは,痛かったのである。

私は,その棒をボッシュートして,家に帰って,最初棚に置いていたが,私にとっては,その棒にもう価値が感じられないような気がした。私の名前と日付が書いてある(書いてくれと頼まれた)ので,コンビニで新しいアイスと交換するのも憚られるし。結局どうしたのか忘れたけど,その棒はなくしてしまった。

その後,トムと私はまた仲直りをしたが,トムは当たり棒なしの人生をすごしていた。私はといえば,アイスといえばガリガリ君,という習慣だけは残っていたので,その夏もガリガリ君を食べ続けていた。そうしていると3.1%の可能性というのは巡ってくるものであり,またガリガリ君の「1本当たり」が出たのである。

その当たりが出たときは,トムには報告しなかった。だけれども,何となく大事に思い,洗って乾かして本棚に立てかけた。

冬が来て,トムが健康診断を受けた。結果が芳しくないため,精密検査を受けることになった。検査がすすむにつれて,もしかしたら大変な病気かもしれない,という可能性が大きくなってきた。

私は,トムに棒をあげることにした。新しく日付を書いて,自分の名前を書いて,緑色のダブルガーゼの布で,ガリガリ君の当たり棒を入れるための細長い専用巾着袋まで作った。

クリスマス前のある日,私はその巾着袋をトムにあげた。トムはプレゼントをもらうのが好きだ。ありがとう。なにかなぁと言いながらその袋をあけて,当たり棒を見たときのトムの顔に浮かんだのは「安堵」であった。

トム。元気でいてくれ。と私は思っていた。

トムとはそれ以降もよく喧嘩をするが,私はトムが元気でいてくれたらそれでいいかと思った日のことと,トムにガリガリ君の当たり棒を2度目にあげた日のことを,よく憶えている。

結局,ガリガリ君の当たり棒はトムにとってはラッキー・チャームであり続けている。トムは敵も多いが,トムにとって大切だと思う人々からは愛されているようである。それは,トムが,一度これだと信じたものを一見ばかばかしいと思えるほどに信じ切ることと関連があるような気がする。

信頼することって幸福の秘訣なのかもしれない。もし「信頼すること」も技術であり,秘訣をつかめばそれができるようになるものだとすれば,私もぜひ習得したいと思う。ガリガリ君にまつわる思い出話を書きながら,幸福に通じるかもしれないひとつの道筋をつかみかけた,ような気がした。