哲学対話体験記#05 「依存」 恋愛依存とはなんだ・問がうまれること・仲間ができること=たびのはじまり

どんどんいく。#04の翌日,5月3日。

私は恋愛依存(あとで考えると人間関係依存だったが)でのたうち回るうちに哲学対話に出会った。大学生〜20代半ばまでひそかに摂食障害(過食して吐くパターン)をやっていた。勉強も仕事もハマるとやめられなくなるが休みが来ると廃人化する(誰とも会いたくない・なにもしたくない,床で転がっている),そんな年月もあった。精神疾患や発達障害の弟たちの代弁者のような親の肩代わりをするかのような気分で東奔西走疲弊していた。弟たちに嫌気がさすとこんどは仕事で子どもに関わることにハマりこんだ。依存が過度になる間じゅう,私は激しく怒っていた。そして,怒っていることに気づいていなかった。

変化があったのは2020年1月。私は自分に身体があることにやっと気がついた。ホットヨガにハマり,かなりのハイペースでヨガをやりだした。ホットヨガでは汗をかく,筋力もない私は身体の痛みを憶える,もうだめだという体勢をキープする,暑い,痛い,こんなところに痛みが感じられるのか,胃があるのか・・・身体の痛みは悲しみにアクセスする扉なのだった。"身体"をみしみしと感じるために私は着換えて薄暗い部屋に入り,みしみしとヨガをする,これはまさに井戸を降りていく作業であった。痛みと出会い悲しみに出会えたとき,私は涙をどくどく流す,カタルシス以外のなにものでもなかった。これさえあれば私セックスいらない。

そのような心持ちで私は3か月間,ホットヨガ依存をやった。まあ3か月で100時間くらいだったと思うが。結果として肌がきれいになり身体が締まり姿勢が良くなった。私はこのままヨガインストラクターにでもなろうかと考えていた。

しかし,それからコロナの時代がやって来た。

コロナの時代になってから

・ここ数年依存していた相手と職場で会えなくなった

・ホットヨガに行けなくなった

・仕事がリモートになり通勤時間や雑事が減った

・哲学対話に出会った

以上のような変化があった。5月3日の哲学対話では,「共依存の二人が二人ともハッピーなら,それは周囲が依存だなんだと批判するようなことではない」ということが話されたと思う。私はその頃,私の依存相手のAさん(男)の食事を毎週末全て作りに来るBさん(女)の存在が気になって仕方なかったので,「あの二人が共依存であっても双方幸せなのであれば素晴らしいことだ」という結論になってしまいそうな,この哲学対話の流れに身を委ねるわけにはいかんという気持ちでいた。今考えるとこの抵抗が問いの源泉となった。

私はその日の対話の流れに沿わず「人を助けたくなどない」「共依存などしたくない」と考えていた。なぜ私はその場の流れに沿って「依存も適度であれば良いものだ」と言えなかったのだろうか。間違った意見ではないことはわかるのに,いやだった。その自分の反応について,考えたかった。

(今考えるとあのときの私は,依存をライトな面からみてその良さを語るには,あまりにも依存にふりまわされ,依存に苦しんでいる最中だったから,かもしれない。)

また私が依存を考えるとき,依存には恥が伴っていた。一番の苦痛は恥であった。それに気がつき,私はその恥について知りたいと思った。

そしてまた,私はセックスについても知りたいと思った。セックスにはヨガと恋愛依存の中間のような雰囲気がある。痛み止めのような抗不安薬のような即効性はあるが根本的な解決には何の役にも立たないもののような扱いもされるかもしれないが,それだけではないかもしれない。...いやいやよく考えれば恋愛もそうだ...おそらく酒も薬物も,あらゆる依存先について言える...,私たちがそこから離れがたいのは... 当たり前のことかもしれないが,その人がそこまで生きてこられたのは,それ(依存先)がともにいてくれたからだ。その事実があるからだ。手放しがたいのは,その人や物質が巧妙に悪さをしているから,だけではない。それが私に寄り添ってくれた歴史があり,そこに愛着があるからだ。それがそのとき唯一握りしめることのできるボロボロの毛布だったのだ。ゴミだといわれて突然捨てられるものか。

だから誰かが誰かに「とにかくそれから離れること」などという方法はうまくいかない。そうではなく私たちはその困った依存先を解体する必要がある。それはなんなのか。私のなにを埋めたのか。どこがいいところなのか。残せるところはあるか。他のもので代替できるのか。

依存先を分散するというのは,単純にちょっとずつ頼っていれば一つなくなっても大丈夫,というようなことではないのかもしれない。依存先が増やせれば,「ああ,コレでも代用可能なのか」という,ベン図の重なりのようなところが見いだせる場合がある。その結果,自分が依存先にどのようなことを頼っていたのか,その理解が深まる。そのような作業は二村さんの本に出て来る「自分の心の穴」の形を知るということに繋がる。私がなにを必要としているのか。私はその頃,本当にそれが分からなくて困っていたのだと思う。

以上の問のような考えのようなものは,この哲学対話当日にちゃんと言葉になっていたわけではない。以下に(まとまりはないけど),この日の哲学対話に関連していると見える,断片的な自分の考察を貼り付けておく。

「依存」のように,テーマそのものが自分の関心のど真ん中という哲学対話は,なんとなく苦手なイメージを持っていたけど,あとで考えると貴重なリサーチができていることが多いのかもしれない。自分が固執したい考えが大きすぎて,その場ですぐに受け入れられないだけで。

さいごに,この日は私の中で「星の王子さま」の哲学対話への意欲が芽生えた日でもあった。

「依存」哲学対話の主催者さん(@our_dialogue
)や二村ヒトシさん(@nimurahitoshi)のご協力を得てすぐに開催が決まった。自分の考えたいことを一緒に考えてくれる人がいる,という心強い体験の始まりだった。

こうして振り返っていると,やはりすべての哲学対話は繋がっている。この繋がりは,「哲学対話は,自己が分断せずに繋がっている場である」故に,日常でも繋がった考え事ができるようになる,という効能があり,そのことに自分は助けられている気がする(ややこしい言い方だ,今思いついたばかりなので,今後もう少しわかりやすく言葉にできたらいいなと思う)。

おかげで自分の人間関係依存は,これ以降,哲学対話をめぐって少しずつ解体されていく。まだその解体作業は,続いているけれど。

#05 「依存」にまつわるレポートは以上です。次回は愉快な名作「着ると化ける」かな? 何を思い出せるのだろう。楽しみです。