【連載小説】アイちゃんがいた居酒屋(第ニ回)
昼間の大雪がすっかり小路を埋め尽くしていた。店がそれぞれに雪を掻いてわずかばかりの入り口を作って客を待っていた。居酒屋月ノ川の軒先にも赤い提灯の灯りが雪を照らしていた。
そんな暖簾を掛けたばかりのまだ客足のない夕刻、若い女性が一人で店に入って来た。
「すごい雪でしたね」
明るい初々しい声であった。
雪は開店まぎわに止んでいて、その安堵した喜びがしぜんと挨拶代わりになっていた。
「いらっしゃい」
仕上げたお通し用の小鉢を一揃え調理台に並べていた女将の道江が、女性の素直な声に応えた。
その道江の顔には珍しく若かりし頃を彷彿とさせる明るさが甦っていた。カウンターを拭いていた亭主の政弘は布巾の手を止めて、滅多にない機嫌のよさそうな面差しを道江に向けた。
「何よ、私の顔に何か付いてるのかい」
政弘は小さく吹き出して、逃げるように若い女性客の方に体を向けた。
「足元の悪いところ、よおござった。さぁどうぞ」
政弘はカウンターの縄編みの止まり木に腰掛けるよう席を勧めた。そんな滅多にないうら若き女性の客に、店の二人はいつにない快活な気分になるのを感じた。
女性客は 「熱燗を」と、ちょっと恥ずかしげに小さな声で注文した。
「寒かったでしょ、熱燗はゆっくり温まりますもんね。日本酒、お好きなんですね」
女性は恥ずかしそうに小さく傾げた。
道江がカウンターの端にいた政弘に 、 「ねぇあんた、熱燗一つ」と声を掛けた。
政弘はガス台のスイッチをカチンと鳴らした。ついでに中腰になって煙草をガスの火で点けて、旨そうに一服してからゆっくりヤカンをガス台に載せた。そしてまた一服した。
道江が女性客に訊いた。
「日本酒がお好きなんだ。大学生ですか」
「はい、すぐそこの」
「そう」
道江はじっとその女子大生を見下ろした。
「すぐそこの」といえば地元の国立大学で地味な学生が多かった。しかし彼女にはどこか垢抜けた雰囲気があった。きっと都会の子、大人しいようで何かスポーツもする才女。道江は綺麗な黒髪の下の澄んだ鼻梁を眺めてそう思った。
女子大生は、出された海月とオクラの酢和えのお通しを片方の掌を添えて口にした。その調子に黒髪が肩から流れ落ちて胸元で揺れた。襟口から白い乳房の膨らみが覗いた。
ほんの一瞬のことだった。道江は柔らかな張りと抜けるようなその肌の白さに、同じ女でありながら心奪われそうな驚きを感じた。思わず調理台に両手をついた。
「お嬢さん、美人さんね。何年生なの」
「ありがとうございます。三年生です」
素直に自分の美貌を認めるのは誰からもそう思われて育ったのだろう。嘘でないだけに偽ってもかえって可笑しいし、何よりもそう生まれたことが嬉しかった。
そんなふうなこと、昔アイちゃんも自分の若い頃を思い出しながら言っていた。今夜、アイちゃん来るのかしら。そう店内を見廻しながら思った。
外は再び降り出した雪が吹雪いて、引き戸に映る暖簾がせわしく羽ばたいていた。道江は小さく吐息した。
「そう三年生なの、もうすぐ四年生ね。ご出身は」
「横浜です。ここもずっといたいくらいいい所です」
「田舎もいいでしょ。自然がいっぱいあって、美味しいものもたくさんあるし」
道江は優しくそう言った。女子大生の瞳が嬉しそうに輝いた。
それから少しの沈黙があった。店内には外の激しい吹雪の音が聞こえていた。今日はもう誰も来ないかもしれない。そんなふうに思える気配がした。道江も政弘も女子大生も、聞くともなくじっと吹雪く外の風の音に耳を澄ませていた。
静けさは店に似合わない。いつだって常連が揃い踏みで押しかけて賑わってくれなければ店も困れば、客たちの明日の英気も養われない。そうだろアンタ。道江は相変わらず煙草を吹かしている政弘の方を見た。
政弘は苦笑いして煙草を灰皿に揉み消すと、再びカウンターの方の客に声を掛けた。
「お嬢さん、何を勉強してるんだい。人文かい、それとも教育…」
「理学部の物理です」
政弘は二の句が継げない顔をした。
「リケジョなんだぁ、凄いっ」
道江が頬を膨らませておかめのような顔をして驚いてみせた。
珍しい若い女性の客に夫婦とも、いつもの親爺ばかりを相手にしている勝手と違って、妙に浮き足だっていた。
「何かお作りしましょうか」
お通しが残り少なくなっているのに気づいた道江が声を掛けた。
「そこに品書きがありますから」
そう政弘が横から口を挟んだ。
すると、道江が今度は亭主をからかうように笑みを崩して付け加えた。
「下手な字でしょ。読めますか、その字」
「はい、大丈夫です。この〝名人もも焼〟って字、素敵ですね。とても渋くて、味わいがあります」
女子大生は、カウンターの目の前にある葉書の倍ほどのプラスチックに挟まれた品書きを指差しながら澄んだ笑顔を向けた。
道江がちょっと困った顔をした。
「何のことないのよ、この人が書いたんですよ。ごめんなさいね」
「いやいや、名人ってこのワシのことで」
政弘が傍から声を浮わつかせて得意げに口を挟んだ。と、道江が反射的に付け加えた。
「ごめんなさいね。名人たって自分で書いてそれしか作らないんですよ。あとは全部、私。後片付けの時にはもうお客とどこかへ行ってしまうんですよ。何が名人だか、もう」
そこまで言って、道江は情けなくなるのを隠すように横を向いた。
政弘は秘伝のタレをくぐらせた鶏の骨付きのもも肉を焼き始めた。いつになくぎこちなさそうな手際に、「アンタ、ちょっと危ないわよ」と道江が手助けした。
女子大生はそんな夫婦を見て、何となくそれまでの緊張感がほぐれる気がした。
「あっ、こっちには〝名物もも焼〟ってありますけど」と、女子大生が見つけた喜びを弾ませた声で言った。
小上がりの横の壁に、品書きと同じ手書きの文字の貼り紙があった。
「そっちの〝名物〟が正しいのよ、うちのもも焼は」
道江が話にオチをつけた。
「名人」を格下げされた政弘は頭を掻きながら、もも焼の焦げ目の加減の仕上げに打ち込んだ。
それから道江が問わず語りに居酒屋月ノ川の店の由来と自分たちの馴れ初めを語り始めた。
女子大生は骨付きのもも焼に箸を突きながら、お銚子の熱燗を大事そうに少しずつお猪口に足しては口元に運び、道江の話を静かに聞いていた。
道江と政弘夫婦は北国の農村の幼馴染みだった。三男坊の政弘は隣町へ出て闇商売から一杯飲み屋を始めた。
月ノ川の名は、政弘の故郷の大きな川の名で地酒の銘柄でもあった。店を持つ時に居酒屋であれば酒は地酒をメインに置くと決めていた。蔵元が彼の古い友人だったこともあって、友人は多くの仲間を政弘の店の常連にしてくれた。
またたく間に繁盛して人手が要るようになった。飲み屋であれば愛想のいい女手もほしかった。
そして、開店して一年後のあの日、道江が親の勧める見合いを蹴って転がり込んできた。道江十九歳、政弘二十七歳の時であった。
「マーちゃん、私をここに置いて」
道江は両手に大きな風呂敷包みをぶら下げていた。赤く腫らした目をして息を弾ませ、じっと引き戸の敷居を一歩跨いだまま立ちすくんでいた。
何があって来たかは、すでに身内から聞いて知っていた。政弘は道江に駆け寄り風呂敷包みを取り上げると、そのまま両腕で道江の肩を抱いた。風呂敷包みの重みが彼女の背中をきつく締め上げた。
二人はその夜、夫婦になる誓いを確かめ合った。幼い頃からお互いを意識していたとはいえ、体はまた違う心のかよいを教えた。もう一人では生きられない。体が一つに重なるように心も二人で一つになった。そして滲む涙がまみえて溢れ滴った。
季節は北の町に冬の気配を告げていた。雨が霙に変わる日が多くなった。店に訪れる客も出稼ぎに出てめっきりと減った。
暖簾を掛けようと道江が軒先を出た時だった。肩先に人の手があった。振り返ると見覚えのある顔が見下ろしていた。
「やはりみっちゃんだ。政はいるか」
蔵元の橋詰吉右衛門だった。その胴間がかった声に道江は不吉な予感がした。
案の定、橋詰の話は政弘と道江が黙って所帯を持ったために自分の立場が狂わされそうになったというものだった。
橋詰は年明けの村会議員選挙に初めて立候補する予定であった。その後援会長を二人の噂を聞くより前から道江の叔父に頼んであった。しかし、道江を決まった嫁ぎ先にやるため連れて帰ってくれば後援会長を承知をするという条件を橋詰は突き付けられていた。橋詰は政弘に詰め寄った。
もちろん政弘にその気はなかった。それよりも道江の一言が橋詰を観念させた。
「私はもうこの人の女になりました。いまさらよその見ず知らずな男の女になんかなれません」
橋詰は尻尾を巻いて逃げ帰った。
しかし、事態はそれだけでは終わらなかった。二人の店が潰された。
所詮、三男坊のタナゴ。村の名士にすれば割り箸より楊枝をへし折るようなもの。道江の親を背いた噂は醜聞を帯び、察した二人は夜逃げ同然に村を出た。乗った汽車は雪の峠を越えた。
そこまで話して、女将の道江は目の前の蛇口で注いだコップを一口飲んで喉を潤した。かと思うと、しばし沈黙した。天井を仰いだまま目を瞬いていた。それが何を意味するのか、夫婦が歩んだ苦楽が思い出された。夫の政弘も吸ったタバコの手が止まったままであった。
外の吹雪が止まない。心を掻きむしるように風音が鳴っていた。道江はとうとう背を向けてじっと棚を睨んでいる。女子大生は胸の高鳴るのを抑えようと下唇を結んでいた。
暫くして、道江が沈黙を開いた。
「お嬢さん、変な話ししてごめんなさいね。それにしても、どうしてそんなに…」と言って、小さく畳んだティッシュペーパーを差し出した。
「いえ、特にわけはありません。お二人、大変だったんだなって感激しちゃったんです。でも素敵なお話ですね」
ティッシュを目尻から頬に当てながら、控え気味に女子大生が言った。そして猪口をひと口傾けてから気を取り直すように今度は張りのある声で言った。
「こちらにいらしてからは大丈夫だったんですか。あちらの方が怒ってお店にやってきたとかなかったんですか」
彼女の心配とは裏腹に道江の顔には笑みが甦っていた。
「それがね、運がよかったっていうのかしら、ねぇアンタ」
「うん、そうなんだよ。まったく運がよかった。ここへは誰も来なかったさ」
二人は揃って笑顔を見合わせ、当時のことを交互に話した。
汽車は雪の峠を越え、道江と政弘の二人は同じ県内の県庁所在地の大きな駅に降り立った。時刻はすでに夕刻であった。外は雪がちらつき足早に家路へ急ぐ人々が駅周辺を行き来していた。
二人は安宿を探して歩いた。幸い駅前で見つかり、その晩は泥のように眠った。
宿には三日ほどいて、その間に政弘が前もって段取りした飲食店同業組合へ開業の相談に足を運んだ。
政弘は始めは東京へ出て一旗揚げてからと考えていた。しかし街から米軍が引き揚げ、花街も戦前ほどでなくとも芸妓達も四十名を数え華やいでいた。当時、北の小都市には敗戦で荒れ果てた都会から糧を見つけに落ち延びた者や、捕虜のまま見捨てられ国許へ帰ることができなかった者たちで溢れかえっていた。その救済策として幾つかの街角にマーケットというバーや飯み屋が何十軒と軒を連ねた一画が市内の数カ所にでき上がった。
しかし、それも新しい都市建設の環境整備が叫ばれるに及んで数年で順に撤去された。溢れた者たちは移転を余儀なくされ、旧花街の周辺の店舗を兼ねた建物に集約されたり、貸店舗で新たに店を始めたり、中には他所の土地へ逃れたりした。こうして街にはバーやクラブ、居酒屋が新たに建ち、復興の兆しを見せ始めていった。
やがて旧花街は、明治改革以来の官庁街や商店街にも近かったので、いよいよ夜を飾る県庁所在地の花形として享楽の市民を呑み込んでゆくこととなった。
一週間もした頃、政弘の腕を見込んだ同業者が一箇所店舗が埋まらないからそこを使わないかと言ってきた。店はすでに組合側が手を入れ、明日からでも始められそうな按配であった。
二人は早速開業の準備に取り掛かった。
政弘の段取りは素晴らしかった。食材は毎日市場へ出る。その他のことは組合が紹介してくれた業者と決めていた。金銭のやり繰りは組合と信用金庫へ道江と出向きじっくりと計画を練った。
道江は生来気丈夫なせいか損得を念頭におく頭の回転を持ち、店の経営には想像以上に頼りになりそうであった。政弘は自信が湧いた。道江も自分でも気づかなかった才能を見つけたようだった。二人は怖いもの知らずな勇気が湧いてくるのだった。
それから半年後の春、二人の故郷の村の議会選挙で蔵元の橋詰吉右衛門が晴れて当選した。それで落ち着いたせいか、身内が押し掛けて来るのではないかという心配が消えた。叔父が後援会長を引き受けたのかどうかすら道江には伝わって来なかった。
二人はそれ以上詮索する気もなかった。幸い店は村の時に較べ毎日が忙し過ぎた。
当時、市内は戦後の復興から立ち直り近代化が著しかった。駅前にはバスターミナルができ、大通りには百貨店のビルが建って人と車が行き交うモータリゼーションと高度経済成長の時代に向け発展しつつあった。
「東京みたいね」と道江が言えば、「行ったこともないのに」と政弘が笑った。
二人に与えられた居酒屋月ノ川は、旧花街のメインストリートだった通りから枝分かれした細い小路の道端にあった。辺りは、旧花街らしくわずかに残った廓や桶屋が酒を出す料理屋になっていた。一階の格子戸の上の二階には肘掛けの縁側が付いていて、酩酊加減の客が粋狂に顔を出していることもあった。
月ノ川のある旧花街は、県庁と市役所のある官庁街に近く、夜の店は日夜役人やサラリーマンで賑わった。
店は今こそ二階建てになったが、終戦からほぼ十年後に北の町からここ県庁所在地の繁華街に移った頃は平屋のあばら屋だった。
「お金持ちの旦那衆が芸者遊びする待合茶屋だったんだってさ」
「変なこともしてたの」
「そういうのは別なほうにあったんじゃないかな。この辺は京都のような粋な遊びを楽しむ高級趣味の花街だったらしい。カガイとも言ってね」
「カガイって」
「花街を音読みすれば…」
「なんだ、なるほどね」
こうして二人はとりあえず生きていくためのこじんまりとした店を開いた。ひとたび道行きが決まれば、元から生業の飲食業ならばと政弘も意気揚々とした。
売りにした鶏のもも肉が期待した以上の人気を得た。当時、肉といえば鶏肉で、高価な牛肉を尻目に庶民の貴重なタンパク源として珍重された。ビールが広く普及し始めたことも後押しした。献立のメニューも山菜を中心に魚介など地元の食材を使って少しずつ増やした。
店を買い取り住まいと店舗を兼ねた二階建てに改築して、二人はいよいよ新興著しい時代を乗り切って行った。やがて遠い時代のことになった。
外の吹雪が幾分柔んできた。廻り舞台のように、客の誰もが帰りの足もとの心配から開放されて、店内には元の和やかな雰囲気がよみがえってきた。
「こんな調子でやってきたの私達。時代がよかったのかしらね」
締めくくるように道江が言った。
話したいことはもっとたくさんあった。でも目の前の女子大生は初めてのお客さん。今夜はもうアイちゃんは来ない。そう気づいてやめた。道江は引き戸の方を見やった。
すると、女子大生が席を立ち上がりながら言った。
「かたい絆で結ばれてる。…なんか憧れちゃいます」
そう詩を読むような憂いを含んだ調子で言って、すぐに肩をすぼめ微笑んで見せた。
残ったわずかな酒をすすると、女子大生はお愛想を置いて帰る身支度をした。白いハーフコートに真っ赤なマフラーを首に巻くと、その首筋に両手の甲を入れて長い黒髪を跳ね上げた。周りの空気までが揺れたかのように見えて、その後ろ姿のまま引き戸の向こうへ消えた。
夫婦は慌てて挨拶を返した。呆気に取られてしばし二人は黙ったまま立ちすくんでしまった。
「今日は不思議と彼女だけだったわね。雪女みたい」
「こういう日もあるさ。雪の降り方が凄かったからな」
慣れた店じまいが済むと、
「たまにはよその店に行ってみないか」と、亭主が言った。
彼の珍しい誘いに道江は戸惑いを感じながらも、今夜はこの人に甘えておこうと心に決めた。
そして外へ出ると、雪の夜の小路が銀河のように輝いて見えた。「月ノ川」の二人は肩を寄せて歩いた。
(つづく・全11回)
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