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幼児教育からみた子育てについて思うこと

先日、Nagatacho GRiDで開催された「モンテソーリ・レッジョエミリアを知り尽くした研究者が語る 誘導しない子育て 」にオンライン参加をしました。そこでの学びと気づきを少し共有したいなと思っています。

モンテッソーリ教育とレッジョエミリアの教育はみなさんご存知ですか?
非常に良いサイトを見つけましたので共有しますね。ともに株式会社恵学社が運営するWEB教育メディア『StudyHacker こどもまなび☆ラボ』からの抜粋です。

モンテッソーリ教育にしても、レッジョ・エミリアの教育にしても、教育とは、空っぽの器に水を満たしていくように、知識等を詰め込めんでいくということではなく、子供には自分自身を育てる力がもともと備わっているのだという「自己教育力」の存在だったり、100人いれば「100の言葉」があるよねということが前提になっていたりします。

「子供」にどんなイメージをもっていますか?

カナダの大学で幼児教育の教員養成に携わっている島村 華子さんの話では、本当によい視座をいただきました。
それは、子供をどのようにみていますか?という話。それが親を始めとした大人の言動に大きな影響を与えるという話でした。

↓当日のスライド配布資料からの引用

例えば、今回話題提供のあったモンテッソーリとレッジョ・エミリアの場合、それぞれ子供のイメージ(子供像)がまず存在し、そこを軸に教育理念カリキュラム、その周囲の関わりや環境というものが派生します。

つまり、子供は独立した一人の人間(個人)であり、権利をもった一市民であるということが前提にありますから、個人に応じたカリキュラムであったり、子供の意見を聞き、自分たちで決めていけるようにするなどの大人の役割が期待されるということです。

条件つきと無条件の子育ての違い

子育てに関して言うと、子供に対して、大人の思い通りにコントロールしようとしてしまうことってありますよね。意識をしていなくても、心当たりがあることかなと思います。例えば、褒美や罰によって、大人の理屈を子供に押し付けるということってありませんか。愛情というのは本来条件付きではないはずなのに、そこに親の価値観などを押しつけてしまうのです。

子供にどんなイメージをもっているかで、子供に対する接し方が変わります。例えば、教育現場においては、それは教育理念だったり、カリキュラムだったり、教師の行動にダイレクトに関係しますよね。それでは親の場合はどうでしょう?実はここが厄介で、今まで育ってきた子育て環境や関わり方という自分の経験に大きく影響されるからです。子育てに対するモデルが限られて、「自分の子供」だからと一人の個人として見れなくなります。さらに、様々な子育ての情報が溢れ、どうしたらよいのかますますわからなくなってしまったり、他者との比較を通して、子供をみるようになる恐れもあります。

目の前の子供と寄り添うことの重要性

何度も繰り返しますが、自分たちの都合のいいように子供をコントロールすることではありません。大人である親としての自分の感情や考えもやはりある訳ですから、子供にもその子なりの考えや感情があります。きちんとそこに向き合っていける状態でいることが重要です。目の前の一人の個人である子供とともに歩めることが、将来かけがえのない存在として、大きな意味をもってくると思います。また、個々の子供の発達や成長段階にきちんと合わせて関わるということ、ほんと月齢によってもぜんぜん発達段階って違いますからね。

ここでふと思うのは、親のイメージって何だろう?ということです。先生ではない親の役割、そして大人でありながら親であることの意味です。夫婦でも各家庭でも方針はきっとそれぞれです。だからこそ、自分たちの子供に対するイメージの共有、コミュニケーションが大事になる訳です。そして、そこで暮らす場所(地域)も重要です。子供達の身近にいる大人達がその子に対してどんなイメージをもち接しているかです。

一人ひとりは違う個性がある、だから私たちはどうあり続けたいのか?そこを常に確認し合いながら、社会全体で子育てに取り組むこと。それは決して大人の都合によるレッテル貼りではない訳です。一人ひとりが自分を大切にできる環境であり、一人の人間として自信をもてる関係でいることが大事だと思います。

さて、それが家庭、学校、地域でできているのか?妄信的にオルタナティブ教育や私学に目を向けるのではなく、自分たちの身の回りのことにも目を向けていきたいと思うのです。


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