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僕が修行に行った話【Episode 7:視野(360+α)°】

ずいぶん時間が経ってしまいました。「ハンター×ハンターかよ」って一人でツッコんでいます(…伝わるかな)。

さて、前回は調子に乗って9,000字強のnoteを公開しました。文の量と質は比例しませんね。「xxx字以上で述べよ」みたいな教育を受けてきた後遺症かもしれません。エピソードはあと2つ、コンパクトにいきましょう!

私たちは分かり合えない

約一年間の集団生活をとおして見えてきたことの一つに「私たちは分かり合えない」ということがあります。立ち入って話すことはできませんが、このようなことがありました。

ある修行生同士が仲違いをしていました。まるっきり互いの考えが理解できない。相手の些細な言動もわるく取る。関係修復は難しいかもしれないと思いつつも、この事柄を糧にしてそれぞれが心を成長させることができればと周囲の修行生たちは考えていました。
どちらが正しいとかそういうことでは無いと思っていたので、僕がどちらかに肩入れするということはありませんでした。しかし、一方(Aさんとしましょう)が僕を慕ってくれているようでAさんの話はよく聞いていました。

Aさんの言い分は注意して聞く必要がありました。ときどき突飛なことを口にするからです。しかし、注意深く聞いてみるとそこにはAさんなりの論理が存在していることに気がつきました。Aさんが生まれ育った環境は、同じ時代、同じ日本とはいえ大きく違っています。したがって、Aさんが人生で培ってきた「常識」や「正義」は僕のそれとは違うわけです。話の前提が違いますから、うわべだけ聞くと論理が飛躍したように聞こえたのです。

上記のことについて「注意深く話を聞けば理解できるんじゃないか」と言う方もいるでしょう。たしかに話の筋はおおかた理解できるかも知れません。ですが相手の感情や意図を完全に理解することはできません。ある単語ひとつを取り上げてもAさんと僕とでは使い方が違います。たとえ「これはこういうこと?」と僕の言葉に言い換えて同意を得られたとしても、二人が頭に浮かべている情景が一致しているかどうかは確認できません。さらに言えば、その主張に納得できるかと言えばそれは全く別の次元の問題です。あくまで私たちは限りなく近づくことしかできないのです。

理解できない前提に立ちながら寄り添おうとする

それでは分かり合えない私たちはどう生きていくべきなのでしょうか?分かり合うことを諦めて勝手気ままに生きていけば良いのでしょうか?少なくとも僕はそうは思いません。完全に分かり合うことはできないけれど、そのなかでも寄り添おうとすることは大切である、と考えます。

人が社会で生きていく以上、完全に一人で生きるということはできません。私たちには必ず両親がいますし、そのことだけ取ってみても社会との繋がりなく存在することはできませんから。

誰かと共に生きる。そのとき「万人の万人に対する闘争」状態だと息が詰まります。苦しい。それよりは多少は他者に配慮するほうが、個人にとっても心地よい状態が得られるのではないでしょうか。このとき、相手への「配慮」が配慮として機能するかどうかは相手に寄り添えているかにかかっているのだと思います。

また、相手と分かり合えないという前提に立つことでかえって良い方向に関係性が進展することもあると思います。皆さんは家族、配偶者、親友、恋人…彼(女)らに対して「なぜ分かってくれないのか?」「そんなことしたら怒るに決まってるでしょ?」と腹を立てたことはありませんか?僕はあります(苦笑)
これはまさに「親しい関係なら分かり合える」という前提に立っているからです。そのような前提に立つとき、往々にして分かり合うための努力を怠ってしまうのです(自戒の念)。分かり合えない私たちであるからせめて分かり合おうとする、ということが私たちの態度を改めさせてくれるのではないかと思います。

体験で理解に近づく

「配慮」という言葉が登場しました。この「配慮」が正しく機能するかどうかは相手に寄り添えているかどうかにかかっていると述べました。すなわち、相手に寄り添えていない「配慮」は正しく機能しないとも言えます。相手を褒めるつもりの言葉が相手を傷つけるなど、私たちの「配慮」は意図どおりに機能しないことがありますが、これはまさに相手に上手く寄り添えていないからなのです。

相手に寄り添うための最も身近な方法は「同じことを体験すること」です。家族を亡くした方の悲しみを汲み取れるのは同じように家族を亡くした方でしょうし、重い病の患者さんの苦しみを理解できるのは同じように重い病を患った人でしょう(もちろん、これらが常に当てはまるとは限りません)。誰かから悩みや愚痴を聞いたりしたとき、私たちは似た思いをした経験を引き合いに出します。これも似たような思いをした経験から類推して寄り添おうとする行動なのだと思います。

しかし引き出しがなければ類推さえできません。たとえば、遥か彼方の発展途上国で紛争と貧困に苦しむ子どもに寄り添うために、必ずしも同じ状況に身をおく必要はありません。その国に旅行に行ったり、その国の友人を持ったり、過去にひもじい思いをしたりすればそれで類推ができます。しかし、その国のことも知らなければ、自分もひもじい思いをしたことがない、周囲にもそのような知人がいないのならばどうしてその子どもに寄り添うことができるでしょう。「努力が足りないのだ」とかそういうことを言いはじめるかも知れません。寄り添おうとすらできないということになりかねません。

背景に目を向ける

体験と同様に、背景に目を向けることも相手に寄り添うための大きな助けとなります。たとえば、ある人から「どうして人を殺してはいけないのか?」と訊かれた時にみなさんならどう答えますか?「自分がされたくないことはしたらいけないんだよ」と言ったとして「私は殺されたって構わない」と言われたら?道徳や倫理みたいな話はときに論理的に相手を納得させられないことがあります。相手も僕の話の筋を理解はできるけど納得はできないという状態。そのようなとき、相手の感情がついてこず上手くその問いを消化することができません。そうならないように相手の背景に目を向けなければなりません。

どうしてこの人はこのような問いを問わなければならないのか?
その人を、その問いの意味を問うのです。

相手の言動が理解できないとき、この人がそのような言動に至らなければならなかった理由を過去に求めていきます。そして、自分が同じ境遇に生まれ育っていたら別の道を歩めたかどうか。そこに思いを馳せていくことによってこちらの接し方は変わっていくと思うのです。

実はこの考え方はジョン・ロールズという哲学者が掲げた「無知のヴェール」という概念にヒントを得た方法です。無知のヴェールについては…説明を省略します。ググってください。

まわりに目を配る

色んな体験をしていても周囲に目を配っていなければ寄り添いようがありません。ほこりを被った神棚に気づくのは、神棚をしっかり見ている人です。ぼんやり目には入っている(英語では「see」ですかね)けど、見えていない(こちらは「look」でしょうか)ことは沢山あります。

有名な心理実験「見えないゴリラ(Invisible  Gorilla)」の映像を見てみましょう。私たちはかなり多くのことを見落として生きているかも知れないということを痛感するかも知れません。

見えないもの”α”

目にうつるモノですらろくに見えていないのですから、目に見えないことは尚更でしょう。無知の知ならぬ死角の知みたいなものが求められるような気がします。そして、そのことは僕の中で10年近く前からずっとテーマになっていたことだったようです。

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最初に視野(360+1)°を提唱しはじめたのは大学生の頃でした(その頃のメモも過去の手帳を探せば出てくるでしょうが、2014年に再掲したときのデータが出てきたのでとりあえず。)ある学生サークルで2泊3日のイベントなどを企画することがよくありました。全国から色んな学生が参加します。パリピっぽい子がいればヤンキーに陰キャ、友人が多い子もいれば初参加の子もいます。数十人が集いますから次第にグループができます。このときスタッフ会議で主張したのが視野(360+1)°でした。誰も孤立しないように、心がはぐれないようにという想いからの発案でした。

自分の周囲360°に対して常に目を配る。
そして、+α°見えないところに気を配る。
その些細な心がけが皆にとって心地よい空間を作ると思ったのです。

社会人になってからそのような目標を掲げていたことはすっかり忘れていました。しかし修行中にふとそのことが思い出されました。ずっと僕の中で一貫して問題となっている事柄だったのでしょう。(みなさんの中にもそのような一貫したテーマは眠っていないでしょうか?)

「起居一切を修行とする」の意味

僕たちの修行生活のテーマは「起居一切を行とする」というものでした。すなわち、起きてから寝るまでの立ち居振る舞いを修行として受けていくという意味です。実際に私は「生活で身のまわりに目を向け、心を向けること」が大切だということを修行中の人間関係をとっても学ばされることになりました。心の動きや主張など、自分からは見えないこと、理解できないことにも真摯に寄り添っていく姿勢を培う訓練をさせてもらったように感じます。

生きやすい世界をまずあなたと私から

結局つらつらと冗長になりましたが、人とうまく付き合っていくためには想像力が大切という話でした(超訳!)。これを他者に求めていくとまた違うことになっていきます。

哲学者レヴィナスという方はユダヤ人として迫害の危機にさらされた経験があります。彼は「悪とは人間的なスケールを超えること」だと言っています。大国、大企業、大富豪…スケールが大きいことがよいこととされていますが、大きすぎるものは歪(いびつ)なバランスの上に成り立っているものです。日本にも「驕れるものは久しからず」という言葉があります。自然なバランスを求めていくことが必要なのだと思います。レヴィナスは、正しいと確信することですら(確信することほど、かも知れません)広く適用させようとすることは悪に転じうるということについて警鐘を鳴らしていたのだと想像します。

それを思えば正しいと思う実践を、手の届く範囲でおこなっていくべきなのかなあっと思ったりするのです。まずはあなたと私くらいの小さなところから良い心になれればいいなと思ったりするのです。


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