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教育に焦点を―子どもにとっての嬉しい学び場

2023/8/3(木):教育に焦点を
 



はじめに

 教育について考察を深める木曜日。
 今日は前回に引き続き、ジョンデューイの残した文献から教育を見つめ直していきたいと思います。
 デューイの残した論文は随分昔のものですが、彼の提示する教育の問題点は残念なことに今でも参考になってしまうもの。彼の教育法が未だに目新しいものに見えてしまい、彼の指摘する教育の問題点が今でもはまってしまうことは、何ら教育が変革できていないことを意味するのではないだろうか、「本質ではあるが時代遅れの指摘である」と言われる日が来ることを期待して、教育について考察していきます。

教育の問題点:マスからの解放

 机が規定どおりに並べられている教室から想定されているいま一つの事柄は、できるだけ多数の子ども達が扱えるように、つまり、子どもたちを個々の単位から成る集合体として、全体として取り扱えるようにと、すべてのことが整えられているということである。そのことは、またしても、子どもたちが受動的に取り扱われることを意味する。子どもたちは活動する瞬間に、みずからを個性化するのである。子どもたちは、その瞬間に集団(マス)であることを止めて、わたしたちが郊外で、すなわち家庭や家族のなかで、遊び場で、隣り近所でよく見かけるように、日頃親しく知っているあの一人ひとりがはっきりと見分けがつくような存在に立ち返るのである。

「学校と社会・子どもとカリキュラム」:ジョン・デューイ 市村尚久(訳)94~

 ここで、デューイが問題提示しているのが、「多様な能力や要求に適応しようとする機会は、学校教育にほとんど与えられない」という点である。
 現在の学校教育は教室内の生徒が平均的に理解したうえですすめることが優先されているのが現状であり、個々の学びが深化していかない原因になっているのではないだろうか。
 高校までの教育機関では「みんなと同じ」を良しとしながら、大学・就活では「個性がない」を悪しとする…これは良く教育への批判として聞かれることだと思うが、デューイの問題提議はこういった簡単な分かりやすいものではない。もっと個々の理解と個性の元にある興味、問題意識などに応じた表面化されない内々の発達と成長に問うものではないだろうか。

教育の問い直し

 わたしは、旧教育を特徴づけている諸点、すなわち旧教育は子どもたちの態度の受動性、子どもたちの機械的な集団化、カリキュラムと教育方法が画一的であることを分かりやすく示そうとして、いささか誇張しすぎたきらいがあったかもしれない。旧教育は、重力の中心が子どもの外部にあるということを述べることで、要約することができるだろう。その中心は、教師、教科書、その他どこであろうともかまわないが、とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにあるのである。(中略)今日わたしたちの教育に到来しつつある変化は、重力の中心の移動にほかならない。それはコペルニクスによって天体の中心が、地球から太陽に移されたときのそれに匹敵するほどの変革であり革命である。このたびは子どもが太陽となり、その周囲を教育のさまざまな装置が回転することになる。その周りに教育についての装置が組織されることになるのである。

「学校と社会・子どもとカリキュラム」:ジョン・デューイ 市村尚久(訳)95~

 ここでは私自身の恥を披露することで、考えてもらおうと思う。
 実は私自身の幼稚園教諭時代を振り返って大いなる反省点がある。
 それはデューイが指摘していることでもある「集団と個」の問題であり、教材ありきの教育をしてしまってきた…ということである。
 私がデューイを深く読んだのは一旦現場を離れてからのことであり、彼の考えに触れるまで、先輩の「この時期はこの工作とこの歌」という園での当たり前に習うことに必死になっていた。
 その決まった活動をする前提で日々の立案をし、その立案を実施するために「理解力のある児童は~、活動が困難な子は個別に~」などとできる子とそうでない子の姿だけを想像して指導案を完成させては「なんとなくこちらの想定通りの工作が出来上がり、皆ある程度平均的な形に収まること」に安心していた。
 個々の姿を適切に観察し援助していく姿とは程遠い教師の姿だったであろう。
 今思い出しても申し訳なくて恥ずかしくて、当時の私自身に強烈なダメ出しをしたい気分である。でも、日々の忙しさと教育へのある種の慣れから、同様の教育の形を今も提供している教師も少なくないのではないだろうか?
 
 ではここで、私の反省点からデューイの教えの取り入れ方を考えていこう。

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