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人口減少時代の都市はインフラ中心の投資から脱却しよう

都市経営プロスク読書部の活動もそろそろ終盤になってきました。今回は諸富徹氏の「人口減少時代の都市」を課題本として、これからの都市の投資のあり方について考えてみます。

インフラ整備で稼げた過去の都市

著者はまず過去の都市経営の成功事例として、戦前の大阪市長である関一(在任1923~1935)の取組をあげています。当時の自治体は財源をほぼ国に握られている中でいかに都市経営を行うかが課題でしたが、主にエネルギー事業(電力供給)を自前で行うことによってお金を稼ぎ、市政の運営に回していたようです。(ただし、第二次世界大戦を契機としてエネルギー事業は国家管理となり取り上げられてしまい今に至ります。)

戦後の成功事例としては神戸市の宮崎市政(在任1969~1989)について取り上げています。市として山を削り海を埋め立て、企業や市民を誘致する「公共ディベロッパー」的な開発手法で利益をあげ、そこまで大きくはない市税収入を補填する形で発展しました。ただし言うまでもなく、この手法が通用するのは土地価格の向上が続くバブル時代までだったということです。

インフラから人への投資に比重を移す

人口増加時代の過去と人口減少時代の現在では同じ手法が通用するわけもありません。そこで著者は、これからは非物質的な人的資本や社会関係資本(ソーシャルキャピタル)への投資をより重視すべきだと主張します。

二十一世紀に入って産業構造の転換が起き、情報通信、知的財産、デザイン、ブランドなどの非物質的要素が資本主義的経済の大きな動因になってくると、人的資本や社会関係資本の蓄積が経済成長に果たす役割が大きくなっていく。(略)もちろん、だからといって従来の社会資本への投資の必要性がなくなるわけではない。(略)財政資源の最適な配分は、それが都市経済の成長を最大化できるか否かで判断できるであろう。各都市の投資戦略が問われることになる。(本書30P)

「ハコやインフラ(社会資本)へ投資すれば世の中よくなる!」という時代は終わり、「社会インフラへの投資と人への投資のバランスを各都市がそれぞれ考えなさいよ」という時代に変わった、ということですね。

コンパクトシティは成功するのか?

著者は人口縮小時代の都市のあり方として、都市の中心部に公共インフラを集中し効率化するコンパクトシティを目指すべきもとしています。その一方で、饗庭伸氏による「都市は外縁から縮小するのではなくスポンジ的に全体が縮小する」という主張を取り上げ、

彼(饗庭伸氏)は結論として、長期的にはコンパクトシティを実現すべきだとしても、その短期的な実現は困難だとして、当面はスポンジ化を前提とした都市空間をつくり、公共投資を介在させない方法で長期間をかけてコンパクトシティを実現していくべきだ、と提言している。(110P)

とし、その批判を妥当なものと認めています。また、ドイツのアイゼンヒュテンシュタット市の事例をあげ、郊外集合住宅の撤去などによるコンパクト化の促進といったドラスティックな手法は日本では不可能だろうとも主張します。

そして、富山市のコンパクトシティの事例から学ぶべきであると繋ぎますが、ここは論旨に対し批判的な視点を加えておきたいと思います。

まず富山市におけるコンパクトシティ施策の結果として、

居住推進地区全体の人口は、この政策が開始される2005年時点では約11万8千人、総人口(約42万人)の約28パーセントを占めるにすぎなかったが、2016年現在、居住推進地区の人口は約15万5千人に増加し、総人口に占める比率も、約37%まで上昇した。(130P)

としていますが、まず人口移動自体を最終的に目指す指標とすべきでなく、それによってどのような都市経営課題の解決に寄与したのか、を検証すべきだと考えます。(例えば公共インフラの維持費が〇〇億円減少した、など。)また、政策開始時期と人口移動についての相関関係があったとしても、個々の政策が具体的にどれだけ寄与したのかという因果関係については、なお検証の余地があるとも考えられます。

富山駅周辺では地価上昇による固定資産税等の増収が3億円あったとのことですが、人口移動が市内の外縁部から中心部である以上、外縁部の地価下落と固定資産税等の減収効果についても同様に検討し相殺されるべきでしょう。加えて、北陸新幹線の開業が2015年3月ですから、そちらからの影響も無視できないのではないかと思われます。

そして富山市のコンパクトシティ施策の目玉は中心部の公共交通機関の充実ですが、当然これは多額の社会資本投資を伴うものです。元々廃止が検討されていたJR富山港線を市が引き継ぐ形で実施したもので、投資額が低く抑えられているという(再現性のない)利点がありますが、それでもこちらの論文では初期投資に公費58億円(うち市負担13億+事業者負担への補助13億)かかっているとまとめられています。

また本書でも、「まちなか居住推進事業」には2005年以降2017年3月末までに約5億2100万円、「公共交通機関沿線居住推進事業」には同期間で約8億9100万円が支出されているとも書かれています。

コンパクトシティ施策に係る費用がこれらに限定されるかどうかも分かねますが、やはりそれなりに費用はかかっており、あくまで現状ではその投資回収は立証されていない、と見るべきでしょう。

私としては富山市のコンパクトシティ施策をだめだと言いたいわけではありません。ただ、外部からやたらと「成功だ」と持ち上げられていますが、現状の情報では成功とも失敗とも判断しかねる、保留という意見にならざるを得ないのではないでしょうか。また、それなりに社会資本投資を伴う以上、体力のない自治体が上辺だけマネをすると大けがをすることになるでしょう。

現状におけるコンパクトシティ施策の合意形成の難しさはあれど、車の規制や郊外開発の制限、公共インフラの撤退など、現実的にはラディカルな手法を織り交ぜない限り、日本のコンパクトシティ施策は単なる過去の社会資本投資の延長線上になってしまう可能性がありそうです。

コミュニティより個人を見たいよね

本書でも触れられていますが、人的資本や社会関係資本(ソーシャルキャピタル)を大切に、という話をしていると、よく「コミュニティ」という論点が出てくるのではないかと思います。

私もコミュニティは大事だと思っているのですが、自戒も込めて言えば、コミュニティってそもそも実体のない抽象的な言葉に過ぎないわけです。

どこかで生活をしているひとりひとりがいて、その相互作用が生まれて重なっていて、そんな結果論の模様に何か意味があるような気がしてきたので、とりあえず便宜的に「コミュニティ」という単語をあてがっているというようなものでしょう。模様の形によって「〇〇型コミュニティ」とか言ってみたり。

例えば「愛」とか「正義」とかが言っているだけじゃ意味がなくて、個別具体的な対象にどう振舞うかという問題であるのと同じく、「コミュニティ」も個別具体的な人の顔を見て考えないといけないんじゃないでしょうか。

なので、都市のコミュニティをどうかしようかと喧々諤々やるのではなくて、まちに住むひとりひとりの幸せを考えてどんな投資を行うのか、そこを具体的な政策にしないといけないと思います。

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