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心理的『エッジ』から紐解く変化の背景。なぜ人は変わり、変わらないのか?

新しい世界への「変化の兆し」であるエッジ

プロセスワークというアメリカの心理学の考え方に、「エッジ」というものがある。これは要するに、「人が変化に差し掛かった時に生じる心の壁」のようなものだ。

慣れ親しんだ今現状(これを一次プロセスと呼ぶ)が、なんらかの理由で未知の何か(これを二次プロセスと呼ぶ)への変化を迫られたとき、人の心の中に「エッジが立つ」ことで、変化への抵抗感が生まれてくる。

例えば、チームに突然新しい目標が提示されたとき。新参者を受け入れる時や、自分が新参者としてジョインするとき。仕事上の課題にぶち当たり変化を迫られたとき。

そんな何かしらの変化を迫られたときには、心の中にエッジが立って、変化をさせまいと抵抗活動をしてくるのだ。

エッジを「越える」イメージ

例えるなら、これは峠を越える旅路のようなものかもしれない。今いる峠のこちら側の世界(慣れ親しんだ一次プロセス)から、せっせと一生懸命に山(エッジ)を登っていき、反対側の世界(新しい未知の二次プロセス)へと移っていく。

変化あるところにエッジが生まれるのは当然のことであり、そびえたつエッジを前に足がすくみ動けなくなるのも、これもまた自然なことでもある。(人間だものー)

そしてエッジを越えて変化するには、体力と気力を消耗するのが普通のことだ。

変化に差し掛かると生じる「エッジ行動」

エッジはほとんど無意識的に沸き起こり、あからさまには自己主張をしてこないため、注意深く観察していないと見逃してしまう時がある。

直接的に「今、私は変化のエッジに立ってます!」と言ってくれればそんなに楽なことはないが、そうはしてくれない。しかし、何かしらの行動や態度には出ていることが多い。

例えば、会議中に貧乏ゆすりをする、というのは比較的分かりやすいメッセージだ。目を逸らして上の空になる、というのもあるかもしれない。

急に声を荒げて意見を表明するというのも、言葉で表現されたこと以外の何かが潜んでいることを示唆している。あるいは唐突に黙り込むのも同様に何かを示している可能性が高い。

そして自分自身のエッジは、意外と自分で気付けないものでもある。変化への抵抗活動は巧妙に隠されているのだ。

変化するのか・しないのかを選択するのは本人の人生の権限

ここで一つ大切なのは、変化するのか・しないのかというのは、その本人に決定権のある問題であるということだ。「あなたはこうなった方がいい」とどれだけ真摯に願っても、それを受け取るか否かの権限はあくまで相手に属するのである。

身もふたもないかもしれないが、将来のことなんて、それが良いか悪いかなんて誰にも分からない問題でもある。変化することがいいことなのか、悪いことなのかなんて、突き詰めれば立証のしようがないことだ。

何が良くて何が悪いかなんて、いったい誰に分かるというのか?(人間万事塞翁が馬)

もっとも、裏を返せば、変化せず現状維持することの利点を立証することもできないだろう。それらしく「私が変わらない〇〇の理由」を並べていたとしても、実は迫りくる自分の中のエッジをなだめているだけの言葉なのかもしれない。ただエッジの言いなりになっている状態では、自分の人生の主導権を握れてると言えるのだろうか?

なんにしてもエッジの存在はそれと認知したうえで、自分自身が腹落ちして物事を決めていくことが重要だろう。

変化に寄り添うとは「エッジ越え」に寄り添うということ

こうして考えてみると、変化するとは即ちエッジを越えるということでもある。

ということは、変化への抵抗であるエッジ行動が出た時点で、裏を返せば、既に変化への扉が開いているということにもなる。相手の中に未知なる世界のイメージが生じ、エッジがレジスタンス活動をはじめる必要性が生じているからだ。「おい、そっちへ行くんじゃない!」とエッジが叫んでいる状態だ。

そして相手の変化に寄り添うためには、相手が「エッジを越える」ことに寄り添うことにもなる。

具体的な寄り添い方は様々だ。こうなれば「共感」も「激励」も手段になる。そっとやさしく寄り添うことでひとりでに飛び立つこともあれば、思いっきり背中を押してあげることで崖から飛び立つこともある。

明確な答えなんてないだろう。繰り返しだが、だからこそ本人が自らがエッジに立っているという状況を理解したうえで、将来の選択を決定する必要がある。

他者に出来るのは、そこにどのように寄り添っていくのか、というところまでなのかもしれない。


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