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孔子~激変の時代に彗星のごとく現れたスーパー保守爺さん~『論語』歴史本vol.5

孔子ほど時代によって評価の変わる人物はいないのではないかと思われます。要は良くも悪くもそれほど影響力が強かったということであり、なんだかんだ儒教は東アジア人の基本フォーマットをつくりあげているような気もします。(これまた良くも悪くもという感ですが・・・)

ちなみに一度は聞いたことがありそうな下記の言葉は、孔子の言葉を弟子たちが編纂した論語の一節です。「四十にして惑わず」、不惑ってやつですね。

私は十五歳で学問に志し、三十にして独り立ちした。四十になって迷わなくなり、五十にして天命を知った。六十になり人の言葉を素直に聞けるようになり、七十になって思ったことを自由にやっても道を外すことはなくなった。

ちくま文庫版『論語』P23

そんな孔子について、歴史背景やちょっとしたエピソードなどを取り上げてみたいと思います。

安定的な身分制の都市国家社会が終わる兆しを見せる春秋時代

孔子が生まれたのは紀元前5世紀の中国・魯の国です。この時代の中国を理解するうえでポイントなのは、身分制がしっかりした都市国家の寄り合いが国を成している、というところです。今の超中央集権的な中国とはだいぶイメージが違いますよね。

さてこの時代は周王朝が諸国を支配しているということに名目上なっていますが、大小様々な国がほぼ自立して動いている状況でした。魯の国は周の名門国家でしたが、隣の大国である斉の度重なる攻撃に悩まされてもいました。

さらにその魯国も”三桓氏”という3つの名門貴族が実権を掌握しており、各々が半ば独立的に動いているという分裂状態でもありました。

そして時代的にはこのあと戦国時代へと入ることになり、周王朝の命の灯火が消えんとしていたタイミングとも言えます。

今まさにかつての社会制度が崩壊しようとしている最中であり、そんな時に現れたのが孔子です。彼はある意味では変化に対抗するための保守派勢力として、復古を理想とする政治を主張します。要は、「いにしえ統治者は徳があったので世の中がよくまとまっていたが、今は徳が廃れて世が乱れている」という話です。

まあ「昔はよかったのぉ」という話であって、本当に昔がよかったのかはもはや誰も確かめようがないわけですが、なんにせよ古今東西よく聞く年長者のボヤキでもありますw

政治権力を行使しライバル講師を処刑

孔子に関する議論の絶えないエピソードとしては、「少正卯誅殺」というものがあります。

この頃孔子も多くの弟子を取って講義をしていたのですが、少正卯という人物が頭角を現してきて非常に人気となり、孔子の講義は空きも出てくるという状態でした。

ちょうどこの時に魯の要職に取り立てられていた孔子は、在任7日目にして色々と理由をつけて少正卯を処刑してしまいます。まさにスピード処刑です。。

この「色々」な理由についてですが、要は「悪い教えを広める人間は処刑するしかない」というのが孔子の弁明です。正当なことなのか、私利私欲やジェラシーなのか。まあもはやその妥当性を検証することはできませんね。

最期まで理想の政治をあきらめず放浪と失望の生に耐える

しかしあまりに理想を掲げ現実離れしたことを要求する孔子の思想は疎まれ、魯の国から亡命し13年の放浪生活を送ることになります。行く先々でも苦労しながら、69歳で祖国に戻ることができました。

孔子の理想主義は様々な現実的な問題も指摘されています。孔子が若い時に斉の国の王が孔子を気に入り登用しようとしますが、名実ともに古代中国最強クラスの名臣・晏嬰に「儒家なんかろくでもないから止めなはれ」と阻止されたこともあるようです。

また孔子が最も寵愛した弟子である顔回は、教えをよく守り貧しい生活の中で病死。有力な弟子である子路も直言が過ぎて権力闘争の中で身体を切り刻まれ、死体を塩漬けにされた(「醢」という刑罰)と言われています。

孔子は自身の理想とする政治を夢見て、いよいよそれを実現できずに病死します。しかし一方で、多くの苦難にも諦めず、理想の実現を目指し生きたというのも一つの事実かもしれません。

後には秦の始皇帝に弾圧されたり、漢の高祖劉邦は儒学者の冠に立ちションしてディスったりしますが、それでも数多の弟子たちが長い時代の中で孔子に憧れ、儒学はすくすくと発展をしていくことになります。

さてこんな孔子の人生ですが、儒学は賛否両論というか、私はあんまり得意でなかったりします。ただなんにせよ、私たち日本人が「常識だ」と考えているもののうちには、かなり儒学的なフォーマットが含まれているものもあります。賛否はともかく、そういったものがどこから来ているのか、「論語」を学ぶことでそこに気付くのは有益なことだと思います。


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