見出し画像

なぜ人は分かり合えないのか

私は鬼滅の刃の登場人物では悲鳴嶼行冥が好きだ。彼は鬼殺隊の"柱"でも筆頭格であり、とにかく強い。「悲鳴嶼がいれば大丈夫だ、なんとかなる」と思わせる有無を言わせぬ安心感があるし、なにより心優しい人間である。

そんな彼の登場シーンは迷言として有名だ。

(主人公に向かって)ああ・・・なんとみずぼらしい子供だ 可哀想に 生まれてきたこと自体が可哀想だ 殺してやろう

いくら漫画の演出とは言え超サイコな発言である。この発言を聞いて彼を好きだとはあまり思わないだろう。

しかし、終盤に進むにつれて「彼の物語」が明らかになっていく。本当の悲鳴嶼行冥の姿を見れば、彼の評価も多かれ少なかれ変わるだろう。

これは漫画の話とは言え一つの示唆が得られる。人間は点としての行動や発言ではなく、その一歩先にある背景や、物語としての連続性がないと理解することは難しいということだ。

今回はそのあたりについて、哲学者の視点を借りながら改めて確認したい。

「言語ゲーム」の違いが理解を妨害する

「言語ゲーム」という概念を提唱したのは、1889年にオーストリアで生まれたヴィトゲンシュタインだ。

ここで少し歴史を遡りたい。

前3世紀、ギリシア哲学界ではプラトンが「イデア論」というものを提唱している。例えば「善」とか「正義」とかいうものは、この世では実体はないが、世界の真理が存在する「イデア界」においては存在するのだ。そしてイデア界の影絵としてこの世に「善」や「正義」が映し出される―。

プラトンによる少し突拍子もない世界解釈だが、ともかく、「善」や「正義」のような抽象概念の真理を追究しようとしていたわけだ。

やがて3世紀~5世紀くらいになると、ギリシア(を征服したローマ)世界に中東から生じた一神教の影響が色濃くなってくる。そして界隈を席巻したのがキリスト教だ。神という絶対的なものへの愛と服従を説く思想が支配したのである。要は、神という抽象概念が世界の大前提となったわけだ。

ここで一つの重大な哲学的思い込みが生じたのである。『絶対的な抽象概念が存在する』という暗示。それは現代における私たちの日常生活でも、未だに当たり前のように顔を覗かせる。

つまり、「善」とか「正義」とかいう言葉を使ったときに、「その抽象概念が一般共通認識として何か特定のものを指示している」という誤解である。

少し分かりにくいかもしれないので、もうちょっと卑近な例を持ち出したい。

音楽のジャンル論争に思いをはせていただきたい。「こんなのロックじゃない」「あっちのバンドの方がエモい」とか、よくあるバンドやミュージシャンが特定のジャンルに適合するかどうかの議論が行われていると思う。

賢明な人であれば、わざわざ哲学を持ち出さなくてもこれが無意味な議論だと分かるだろう。人によって音楽の感じ方は違うし、音楽は常に変化しているし、そもそもある特定の音楽をジャンルにカテゴライズすることにさほどの意味はない。(飲み屋のおつまみセット程度の話題だ。)

しかし、なぜジャンル論争は終結しないのだろうか?これを説明できるのが「言語ゲーム」の考え方だ。

こういったジャンル論争に陥る場合、「ロック」や「エモい」という音楽的真理が存在しており、これらの言葉はその真理を表現するものだ・・・という誤った大前提(あるいは仮説にすぎないもの)に立ってしまっているのである。そう、「善」や「正義」について答えの出ない議論を2千年以上続けてきた哲学者たちと同じように。

「言語ゲーム」のキモは、「善」や「ロック」という言葉というのが、それを使っている人たちが、その言葉がどの範囲を指示するのか・・・ということのゆるやかな合意の集合体でしかないという点にある。いや、全ての言葉がそうなのだ。実は言葉の指し示す意味というのは文脈も含めて緩やかな暗黙の合意によって伝わっているに過ぎず、いくら伝え手が意味を吟味し論理を重視しても、「言語ゲーム」というルールが共通でなければ伝わることはない。

話が噛み合わずぐるぐると議論が循環するとき、まず「言語ゲーム」が一致しているかを考えてみると助けになるかもしれない。

自分は、そして相手はどんな「言語ゲーム」を受け入れているだろうか?

それぞれ違う「意味の場」の世界を生きている

次は1980年にドイツで生まれた気鋭の若手哲学者、マルクス・ガブリエルの提唱する「意味の場」を紹介したい。

冒頭の悲鳴嶼行冥の発言に立ち返ってみよう。

ああ・・・なんとみずぼらしい子供だ 可哀想に 生まれてきたこと自体が可哀想だ 殺してやろう

これは、そもそも主人公が鬼となった妹の禰豆子を庇ったことに向けられた発言だ。しかし、なぜ鬼とはいえ妹を庇っただけでこんなことを言われてしまうのだろうか?

主人公にとって妹は唯一の肉親であり、人を襲ったりはしない。

悲鳴嶼にとって鬼は大切なものを奪った、人を食らう敵である。

こうしてみると、妹・禰豆子に対するお互いの見解は絶望的なまでに乖離しているのである。

私たちは確かに物理的な世界に生きている。肉体も事実として物質である。身体は細胞から成り立ち、細胞は分子から、そして分子は原子から、そして素粒子から・・・細かくしていけばどこまで行っても物理的に取り扱える物体の集合体に過ぎないようだ。

それなのに、一つの対象に対し、これほどまでに違う意味をかぶせているのだ。当然、漫画だけの話ではない。子どもの頃の思い出の品、生まれ育った家、恋人との待ち合わせに使っていたまちのオブジェ・・・

全ては物質に過ぎないが、私たちにはオンリーワンの「意味」がある。私たちは物質に対して「意味の場」を張り巡らせており、その世界の中を生きているのである。だから見解が相違するのだ。

妹に関する主人公と悲鳴嶼の見解の相違は、別々の「意味の場」の世界にいるからだと分かるだろう。物語はやがて二人の「意味の場」を歩み寄らせるが、その仔細はぜひ漫画を読んでいただきたい。

分かり合うために

どうやって分かり合えばいいのか?という問いはシンプルでとても難しい。おそらく個々別々の状況に応じてオーダーメイドが必要だし、労力を惜しむことはできないのではないか。

私も全然人とは分かり合えないので偉そうなことは言いたくないが、ここまで来て解決策がないと読者が怒り心頭になるのではないかと思うので、申し訳程度に書かせていただきたい。

この記事でのポイントを2つおさらいしたい。

一つは「言語ゲーム」の違いに気をつけること。相手に理解できない言葉を使ってはいないか。相手が自分と違う意味で解釈する言葉を使っていないか。単語だけでなく、文脈や、絵や写真などの視覚によって補助することも役に立つのことがあるかもしれない。

もう一つは「意味の場」の違いに気をつけること。相手はどんな世界を生きているのか。どんな物語を紡いできたのか。そこに誠意ある関心を持ってダイブすること。どうやったら「意味の場」を共有し分かりあうことができるのか。そのために必要な知識や体験、コミュニケーションはなにか。

ちなみに、聴き手としてこの2点を有効に観察するのが「傾聴」という技術である。コーチングを学ぶ際に「傾聴」のトレーニングをだいぶやったが、相手の世界にダイブする力は格段に上がった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?