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茶の歴史と文化と「おもてなし」 伝来~室町時代前期編

はじめに

茶は、日本の文化に深く根ざした飲み物であり、その歴史と風習は多様な形で発展してきました。本エッセイでは、茶の起源とその伝来から、平安時代から室町時代前期にかけての日本における茶の発展について探ります。特に、仏教行事としての「引茶」や、栄西禅師がもたらした新しい茶の点て方、そして室町時代における武士や庶民の間での喫茶の普及まで、茶の文化がどのように形成され、広がっていったのかを詳述します。茶の歴史を通じて、当時の社会や文化、そして人々の暮らしぶりに触れることができるでしょう。

第1章: 茶の起源(中国での喫茶)

茶の文化のはじまり

茶の木の原産地はインドのアッサム地方や中国の南西部(四川・雲南省)と考えられており、茶を飲む風習は四川省あたりから広がりました。紀元前には茶が商品として流通していたことを文献から知ることができます。日本では弥生時代の頃です。

また、茶を飲むこと以外に利用した歴史はもっと古く、西暦二百年末頃に書かれた『神農本草経』によれば、中国の伝説上の帝王で漢方薬の上さんと伝えられる神農が四千年以上も昔、いろいろな薬草を探しているうちに毒にあたり、茶を飲んでこれを癒したとあります。最初は薬として用いられ、その後は茶の葉を煮たり蒸したりして不老長寿の仙薬として飲まれていたようです。

茶の流行と技術の発展

茶を飲む習慣は唐の時代(618~907)に大流行し、その頃、陸羽によって世界初の茶書である『茶経』が著されました。『茶経』には茶の起こり、製茶の方法や道具、茶の飲み方などが記されており、専用の道具が用いられていたことがわかります。

茶の葉は保存や運搬のために団茶という形に加工され、粉末にして煮だして飲んでいました(煎じ茶)。宋(960~1279)の頃になると、茶の葉を焙るか蒸すかして乾燥させ、粉末にした茶に湯を注ぎ、かき混ぜて飲まれるようになり(抹茶法)、次第にいくつかの茶の点て方がみられるようになりました。

その後、中国ではこの飲み方は長く続かず、明(1368~1644)の頃になると現在の煎茶のように急須に茶を入れ、湯を注ぐという飲み方になりました。

第2章: 茶の伝来

仏教行事で行われた「引茶」

唐の時代にはすでに茶を喫す習慣があり、日本に茶を飲む風習が伝わったのは奈良時代(710~794)です。遣唐使や中国に留学していた僧たちによってもたらされたと考えられています。聖武天皇の時代から行われていた仏教行事の中で、一定の作法をもって茶を供する引茶が行われていた記録があります。

茶樹栽培のはじまり

日本に茶が植えられたのは平安時代(794~1192)の初めで、唐に渡り仏教を学んでいた最澄が永忠とともに帰国(805)した際に、茶の種子を持ち帰り比叡山のふもとに植えたのがはじまりといわれています。嵯峨天皇が近江の唐崎に向かう途中、梵釈寺に立ち寄られた際、永忠が自ら煎じた茶を奉じたと『日本後記』に記されています。

その後、天皇は畿内など諸国に命じて茶の木を植えさせ、茶が各地で栽培されるようになりましたが、中国のものと比較すると、さほど良質の茶とはいえず、その後も茶は中国から輸入されていたようです。

中国から伝わった喫茶の風習は、嵯峨天皇を中心とした貴族社会や僧侶の間に受け入れられました。しかし、やがて遣唐使が廃止され(894)、日本と唐の交流が途絶えたことにより茶の輸入もなくなり、国内での茶の生産は不十分であったこともあり、茶を飲む習慣は一時的に衰えてしまいました。

第3章: 茶の普及と抹茶法(平安時代末~鎌倉時代)

茶を飲む作法の確立

平安時代末に宋との国交が開けると、再び茶葉や器具がもたらされます。この頃の中国では、唐の時代の団茶に代わって、現在私たちが使用している抹茶と同じくらいの質の良い茶葉ができており、茶を点てるのに使用する器具も精巧なものができていました。寺院での修行生活の規則である「清規」の中に「茶礼」が定められているように、茶を飲む作法などもこの頃に定まり始めていたようです。

栄西がもたらした飲茶の風習

栄西禅師は修行僧として宋へ渡り、中国で禅を学び日本に伝えますが、帰国の際(1191)、質の良い茶や器具を携えて、新しい茶の点て方(抹茶法)などを伝えました。鎌倉時代前半の茶は主に薬として用いられましたが、栄西による新しい茶法の伝来は、それまでの喫茶の風習とは異なり、禅に裏打ちされたものであり、その後、禅と茶は結びつきをいっそう強固にしていきました。

寺院での喫茶習慣

栄西は、宋から持ち帰った茶の実を京都栂尾高山寺の明恵上人に贈ったと伝えられています。栂尾の土が茶の栽培に適していたことから上質な茶が採れるようになり、栂尾で採れる上質な茶を「本茶」、その他の土地で採れる茶を「非茶」と区別するようになりました。こうして宋に渡った僧侶たちの影響で、日本での茶葉の生産が充実し、再び茶を飲むことが盛んになってきたのです。

武士たちの喫茶の流行

栄西は『喫茶養生記』という書物に茶の効能などをまとめ、鎌倉三代将軍源実朝に一椀お茶とともに献上します。これをきっかけに、実朝は茶を飲むようになり、喫茶の風習は次第に上流階級、とくに禅僧と交流のあった鎌倉武士たちの間に流行し始めました。茶の流行に伴い、宋との貿易を通じて大量の中国の文物が運び込まれ、唐物とよばれるこれらの品々は茶に使う道具として珍重されました。鎌倉時代後半には、唐物を鑑賞しながら茶を飲む形式が生まれ、茶が文化を伴う時代が始まろうとしていました。

第4章: 喫茶の広がり(室町時代)

遊芸の茶

室町時代(1336~1573)の初めには、武家をはじめ商人の間にも茶を飲む風習が広がりました。しかし、この頃の茶を飲むことは贅沢な遊びの一つとして考えられ、特に武士たちの間に流行した闘茶や茶寄り合いは、きらびやかな衣装を身につけ、豪華な食事をした後、幾種類もの茶を飲んで本茶・非茶を言い当てることに金品を賭ける遊びとして流行しました。

武家の茶

室町幕府三代将軍足利義満が明との貿易を開始すると、絵画や陶磁器など多数の唐物が将軍家の蔵に収められることになりました。義満は室町殿(将軍の邸宅)を造り、連歌やさまざまな芸能の場として会所を設けました。会所では一部の上流階級を中心に現在の茶事と似通った形式を持つ茶会風景が見られるようになってきました。

会所の飾り付けを行ったのは「〜阿弥」と名乗る同朋衆たちで、彼らは将軍の身近に仕え、座敷飾りや唐物の選別や保管などに従事し、茶の湯も彼らの仕事のひとつでした。

簡素な茶を好んだ足利義政

八代将軍足利義政は風流を愛し、静かに趣味を生きることを好みました。禅僧などと交流を持つうち、茶を楽しむようになり、同朋衆の能阿弥の紹介で、茶の湯をたしなむ珠光を招いたといわれています。

珠光は、今までの贅沢一点張りの風潮を改め、簡素で落ち着いた禅僧寺院の茶にそった茶法を作りました。珠光は義政からその茶法について質問を受けると、「茶法というものはただひたすらに清くして、禅にそったものであって、それが茶法の極致であり、最も根本的な精神です」と答えました。

庶民の茶と喫茶の広がり

義政が茶を愛好し始めると、一般の人たちにも茶を飲むことが流行し、寺社の門前など人の集まる場所に茶売りの姿が現れます。茶一服を安い値段で点てて飲ませることから「一服一銭の茶」と言われていました。時代が経つにつれ、茶売りたちは門前から市中へも進出し、茶店ができました。

このように室町時代中頃には、会所に唐物を飾り付けての喫茶形式が完成し、一方、寺社の門前で参詣人に茶を振る舞う一服一銭の茶が売られ、珠光たちによる新しい形式でのわび茶が芽生え、いくつかの茶のあり方が並存した時代となりました。

おわりに

日本における茶の歴史は、奈良時代に中国からもたらされたことに始まり、時代とともに進化し、さまざまな形で社会に浸透していきました。平安時代の貴族社会や僧侶たちの間で始まった喫茶の風習は、鎌倉時代には武士たちの間に広がり、室町時代にはさらに庶民の間にも定着しました。この過程で、茶は単なる飲み物から、禅の精神と結びついた文化的な象徴へと変貌を遂げていきました。

特に室町時代には、茶の湯としての形式が整い、上流階級から庶民まで幅広く愛されるようになりました。この時代の茶のあり方は、現在の日本文化における「おもてなし」の精神にもつながっています。茶の歴史を振り返ることで、私たちは茶に込められた深い文化的背景とその意義を再認識することができます。茶の歴史と文化は、今後も変わらず日本の心を象徴するものであり続けるでしょう。

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