あまりにもモテないので京都の縁切り縁結び神社に行った


#創作大賞2024 #エッセイ部門

もう行こうと思った時には新幹線に乗っていた。
心の中で思った時に既に行動が終わっているものだ。本気とはそういうこと。

京都に突然行くことになったのだ。単身弾丸旅行に出たのである。
金を下ろして東京駅から新幹線に乗り、後ろに飛んでいく景色を見ながら我に返った。
なぜ私はこうやってたまに行動力の鬼になってしまうのだろうか。コミュ障ヘタレで、うたれ弱いくせに、自分の行動力には驚かされる。
新幹線代はべらぼうに高かったし、何がしたいのかお前はと言われると、答えられない。
ただ私の本能がお告げを受けたのだ。「京都に行きなさい」と。縁切りと縁結びで有名な安井金毘羅宮まで行って、お守りを買ってきなさいと。随分、具体的なお告げである。

ことの始まりは前日の深夜にさかのぼる。

私は本当にモテなかった。恋人が一人も出来たことがないのだ。人の温もりすら忘れつつある。お母さんの腕の中では代用にならない。そんなことを深夜に考えていると、たまらなくなってきたのだ。
夜という時間は暗いせいか、変な妄想や絶望感を湧かせる不思議な力がある。
煽情的なものでも観ようかなあとスマートフォンに手を伸ばすが、そんなもの見ても虚しいのは分かっている。一時盛り上がって、終わった後には恋人のいない自分が残されて。一体それの何が楽しいのか。

私のモテなさ加減と言ったら本当に冗談みたいで、好きになった子からは悉く振られ続けた。男女問わずアタックしまくっていたが、どれも玉砕。
バレンタインチョコを手榴弾のように投げつけ、好きだ愛しているだのとポエムを書き、求愛するアフリカあたりの鳥のように、好きな人の周囲を馬鹿みたいに走り回ったこともあった。
全部馬鹿みたいに終わった。馬鹿である。

もう無理である。もう無理と思った。

一体、どれほど我慢すればよいのか。どれほどおあずけを食らえばよいのか。知り合いにはみんな恋人がいて、朝も昼も夜もイチャイチャしているそうじゃあないか。
自分だって誰かと夜を過ごしたいし、抱かれたいし、抱きしめたい。

怒りと苦しみの中、友達の言葉が急に思い出された。
「京都に安井金毘羅宮って言う、縁切りと縁結びの神社があって、すごいらしいよ」
本当にお告げのように、友人の声が頭に響いたのだ。

その瞬間思った。「そうだ、京都に行こう」と。
部屋着が乱れ、足首にズボンの枷をつけた情けない出で立ちで、私はそう決意した。髪はボサボサで酷い恰好だが、こんなにも熱意はあるのだ。

明日朝一に家を出て、縁結び神社に直行して、寄り道せずに帰れば京都なんて半日で行けるだろう。
弾丸旅行が決定した瞬間である。
神頼みなんて馬鹿だろうと思うだろう。しかし哀れな私はもう聖地を求める旅人のように、神に頼るしかなくなっていた。占いやスピリチュアルなものを馬鹿に出来ない。しかし半信半疑なのも事実。私はロマンチストだが、同時にそんな自分を強く嫌っている。
仮に願い何て叶わなかったとしても、こうして決心した時にしか旅行なんて行かないものだ。いい機会が見つかってよかったでいいじゃあないか。

財布と携帯くらいしか持って行くものがない。ほとんど手ぶらで新幹線に飛び乗った。
乗っている間、風景を楽しんだが、新幹線は速いうえに、騒音防止の壁沿いを走る乗り物だ。
そこまでゆったり風景を楽しむ余裕はなかった。乗り物の中だと、妄想がかなり捗るもので、私はこの時間をかなり気に入っている。
名古屋を過ぎたあたりで、「何やってんの、私?」と問いかける自分がいたが、そこはまあ、ここまでくればしょうがないってことで、私ちゃんには諦めてもらうしかない。友人にも「今から京都に行くぜ」と連絡を入れたものの、「あ???」という返事しか貰えなかった。
私の行動力におののいたらしい。当たり前だ。自分でもアホだと思う。

目指すは安井金毘羅宮ただ一つだ。
日本三大怨霊の一人である崇徳天皇。彼は怨霊でありながら、縁切りと縁結びに定評のある神であり、京都の地に長く祀られていた。金毘羅宮の効果は絶大らしく、崇徳天皇は御戯れが過ぎまくるくらいには、強引に縁を結んだり切ったりしてくるらしい。
縁を自在に操る彼の凄さは、土地を越え、時を越え、私のような変人の耳にも入るほどだ。
しかし私は、この効果は最早彼だけの力ではないと踏んでいた。
各地から時代や世代を超えて集まる人々の念。それらが一つの土地に集結して新たな何かを生み出している。神とも霊とも言えない、ごちゃ混ぜの魂が、脈打っている感じだ。
そして安易に近づいてはいけない危険な場所らしい。禍々しい力が働いていることには違いないはずだ。

京都駅に着くと、私は調べ通りバス停に向かい、直ぐにバスに飛び乗った。京都は一人で散策したことがある土地だ。和風で重要文化財や歴史が染みついている土地。私はこのどれほど近代化が進んでも、顔をのぞかせる昔ながらの文化が大好きだった。
京都人はその在り様を誇りに思っているのだろう。自分の故郷に殆ど誇りらしきものを感じない私にとっては、羨ましい限りである。
そんなわけで京都が大好きな私は、碁盤状のわかりやすい土地というのも相まって、案内を見なくても歩けるくらい慣れていた。

今回のスムーズな乗車も、私の京都大好きセンサーのお陰である。
車内では雅な京都弁が聞こえてきた。京都駅からでたバスなので、観光客も多いが、同時にはんなりした京都弁を楽しむことができる。
京都の人は遠回しに嫌味を言う、性格が悪いなどと言われているが、あまりそれを感じたことがない。
私の出身地だって、「男尊女卑が酷く、極道蔓延る修羅の国」として知られているが、その評価に驚くくらいそれを感じたことがなかった。
ちょっと変わったところと言えば、たまに発砲音が聞こえるくらいで、まあそれ以上は言わないでおこうか。
だから京都も不名誉な噂のせいで、評判を落としているのではないかとやや心配だ。

そんなことを考え、バスに揺られていると、着いた。
東山安井。安井金毘羅宮があるバス停である。
場所は直ぐにわかった。バス停から歩いて直ぐに見える鳥居である。おそるおそる鳥居に近づいた。

そして・・信じられないかもしれないが、なんだかひどく居心地の悪さを感じた。どんなものかと言われると難しいが、例えるなら学生が入りづらい職員室みたいな雰囲気である。「ここから先は立ち入ることができるが、気を引き締めろ」とでも言いたげな感じだ。
私は鳥居の端を潜ると、そっと一歩踏み出した。
楽しく向かう観光地ではない。「ああ、来てしまったか!」と思ってしまった。神社を見て初めて「怖い」と感じた。
あまりの迫力に私は一回神社を出た。心臓がぞわぞわする。中から怒らせた人間を前にしたような、嫌な気迫を感じた。
冗談抜きで気味が悪い。神社の入口で、意味もなく何度もアルコール消毒をし、ようやく決心して中に入った。もしかして私は霊感でもあるのだろうか。そんなはずはない。

安井金毘羅宮はそこまで大きな神社ではない。二つ宮があって、それも小さな京都の町の一角にひっそりと立っている感じだ。
なんだ、そこまで規模がないのかと思っていると、有名な「札がぎっしり貼ってある岩」があった。それを見た時、「うわあああああ」となった。形容できない。寒気が全身を走り抜けた。そこだけ化け物が蹲っているような異様な光景だった。どうして観光に来ている女の子たちは楽しそうにその周りでお喋りができるのだろうか。
化物というより、肉の塊に札が貼られている感じだ。無機質な石であるのになぜ肉なんて思ったのだろう。
私は早々にビビってしまい、岩から逃げ出して、とにかく崇徳天皇に挨拶としてお参りをした。全ての宮に挨拶とここに来た理由を語った。

理由は「自分の才能を愛してくれるような、心から対話ができる人生の相棒が欲しい」である。
ここまでくるきっかけが汚すぎるが、この土地に嘘はつけないと思って、更に私は包み隠さず下品な胸の内を告白した。言葉は選んだが、心の中でとはいえ、みんないるのに抱きたい抱かれたいなどと、欲望を祈るのは気が引けた。
自分の欲と心の寂しさと向き合うためにもここにきた。単に願いをかなえてもらうためだけではない。
挨拶が終わると、演出のように鳥たちが私の頭上で一斉に飛び立った。いよいよ神域である。本当に怖い場所だ。遊び半分で行く場所ではないことは十分にわかった。

次に夥しい量の札の仲間を作成するのだが、私はかなり考え、上記の願いを書いた。観光に来ていた女の子たちが、わいわい盛り上がりながら願い事を書いていたが、そんな動機で大丈夫だろうか。彼女たちや周りの参拝者に見えないように、札の裏側に願い事を書いて裏向きになるようにした。
神社に訪れている人は、観光客と本当に目つきから違う猛者の両方が居た。私も猛者の仲間である。
次岩を二回潜り、札を貼らないといけない。縁切りと縁結びの儀式である。
岩は思ったより低く、みんなの前で四つん這いという何とも滑稽な姿にならなくてはいけない。友達と来ている人ならまだしも、一人で披露するには恥ずかしい格好だ。
しかしみんな粛々と儀式を行っていた。ここにいる人たちはみんな想いを抱えた仲間なのだ。ここで躊躇ってどうする。
私はゆっくり息を吐いて、真剣に手を合わせると、膝をすり減らしながら岩を潜った。自分の寂しさと苦しさ、胸の内を曝け出して頭を下げた。
やはり儀式は恥ずかしいが、何とか札を貼って完了させた。
これでいいのだろうか。何かが変わった感じは特にしない。ただ、やり切った感が凄い。
あとはおみくじとお守りを購入した。
絵馬や貼られている札には、あらゆる願いが込められていたが、私は好奇心が強い質なのに、それらにじっくり目を通すことが出来なかった。一刻も早くこの場から立ち去りたかったが、取りあえず神に失礼のないようにちゃんと挨拶をしようと思った。
「自分の想い人が別れるように」
「早く離婚できるように」
そんな文字が少し目に入った。見ていて気分のいいものではない。

さて、相手も定まっておらず、もやもやした願い事になった私の札は、果たして本当に効果があるのだろうか。自分の性欲と心の乱れと向き合うため訪れた聖地だが、私はこれからの出来事をきちんと受け止めることができるのだろうか。
「自分の才能を愛してくれるような人生の相棒が欲しい」なんて、これまで誰かが願ったことなどあるのだろうか。恋人とも結婚相手とも表記していない。そんなやつはこの世にいないかもしれない。

ただ世の中に今、存在するであろうあらゆる人間の中からそれが選ばれるとしたら。私の手を取る奴などそこにいるのだろうか。

神様には無理難題を押し付けてしまったと思った。人生の相棒なんて気取った言い方などせずに、素直に恋人が欲しいですと言えばいいのに。
しかし何でも願っていいならもっと条件をつけた。もしかして具体的な方が神としても助かるのだろうか。

もっと言うなら、タバコを吸わず、ギャンブルなどせず、けして怒らず、いつも静かに笑っている好青年を所望す。さらに言うと、変な言葉責めなどせず、ピロートークを怠らず、音痴じゃない人がいい。
これ以上贅沢を並べると、神の雷を食らいそうなので止めておこう。

汚い願い事も欲望のまましてしまった。神様に性的なことまでお願いするのはどうかと思ったが、それが自分の正直な願望だ。
神だって古事記とかいろいろ古代の成人向け本を履修済みだろう。きっと許してくれるに違いない。

参拝が終わって、御籤を引くと、「今年中にやり残したことを全部行動すると、変わります」と書かれていた。やり残したことって何だろう。もっといろんな人にアタックしろと言うことだろうか。
そう言えば友人にもお守りを買っておいた。
これから人生を羽ばたく中、切りたい縁も結びたい縁も現れることだろう。私が代わりに参拝してきたので、お守りでも片隅に置いて頑張ってもらいたい。
神社に一礼してバス停に向かうと、肩にかかっていた緊張感はだいぶ解れた。来てよかったと思うのと同時に、「安易に来るところではないな」と悟った。

駅に着いて何か食べようと思ったが、なかなか見つからない。
正直駅周辺は、言ったことのある店ばかりなのだ。京都を愛するが故に、何度も訪れていた者として仕方ないことだ。
駅から離れて本能寺付近だと面白い店も沢山あるが、今日中にここを去らなくてはならないとなると、そこまで脚を伸ばすわけにもいかない。
仕方ないので、駅ビルの最上階で友人リクエストの「京都っぽいもの」を食べることにした。京都っぽいものって何だよと思ったが、京野菜や天ぷらや茶漬けなど、和風のやつだろう。ここも利用したことがあるが、串揚げしかたべたことがないので、反対側の観光客向けの御膳料理を食べた。
友人に写真を送り食べてみると、まあ美味しかった。もやしやネギを蒸したやつにポン酢をつけて食べるのだ。私は家でよく蒸し野菜をしていたので、懐かしくなり、「ああ、美味しいね」と思いながら食べた。

天ぷらは抹茶塩である。意外なことに南瓜がなんか美味しかった。京都の天ぷら、私はかなり大好きなのでもう一度有名店で食べたい。京都市役所付近や烏丸御池あたりに美味い天ぷら屋があるので、今度はそこに行きたいな。

和風料理である。美味い料理を食うと、なんか逆に腹が減ってくる場合がある。今まさしくそれで、まだ食べたくてしょうがない。

(帰りたくない・・・)と私は心の底から思った。京都、大好きなのだ。
京都人は怖いとか、いろいろ聞くが、私は京都大好きだ。どのくらい好きかというと、人に「大好き」と堂々と言えないレベルである。つまり物凄く好きだ。
土地に対してツンデレを発揮するくらいなので、京都大好きレベルはかなり高めである。重要文化財に抱きついて泣きたくなったが、そろそろ帰らなくてはならない時刻だ。
(やだああああ)と心の中で絶叫した。
新幹線の切符を買う時本当に泣きたくなった。なぜか二時間後の切符を買ってしまったのは許してくれ。帰りたくないってことだ。

そのあとは京都駅を出るわけにもいかず、ぐるぐると適当に展望台に行くなりなんなりして、最後に抹茶屋に入った。
前に友人とも入ったことがある抹茶屋である。前は子供だったのでパフェだのアイスだのを頬張ったが、私はもう大人だ。
一番濃い抹茶を流し込んで静かに帰ろうと考えた。店で一番濃い抹茶を頼んだ。馬鹿だと思う。一番濃い奴なんて抹茶マイスターくらいしか頼んではいけない。しかしこれぞ抹茶。京都で一番濃い抹茶を頼むことこそが正解だと信じていたのだ。静かに待っていると、直ぐに運ばれて来た。

・・・それを見て、ちょっと驚愕した。
(生物の授業、食べられるビオトープ、かわず飛び込んでそう、古池コラボカフェ)あらゆる毒舌が、私の脳内を飛び交った。そのくらい「真緑」だったのだ。絵の具そのものみたいなそれは、器を傾けると粘り気を残しながら泥のように揺れ、あまりの光景にうお、と喉が鳴った。完全にご当地スライムである。
その環境活動家が大好きそうな色を飲み込んだ。うん。良薬じゃないのに口に苦すぎる。

食べられないタイプの葉っぱの木を飲み込んだような、森林の猛襲。私は場を弁えずに、大きく咽た。ああ・・苦しい。
泣きそうで、付属の茶菓子を口に入れて誤魔化した。
見れば、私よりずっと年上のおっさんたちは、パフェやケーキなどを食べて楽しんでいるではないか。変な気を起こして濃すぎる抹茶何か摂取するから、こんな酷い目に合うのだ。
私は涙目になりながら、店の人に「もう無理でしゅ・・」と助けを求めた。
涙目の私を見て、秒で察した店員は、直ぐに薄めて持ってきてくれた。
情けなさ過ぎる。数段階薄い抹茶も、苦すぎて涙が出た。
でも確かな苦さの中に上品な美味しさが溢れており、これぞ抹茶だと有難く飲んだ。美しい緑色で、付属のお菓子もぐっと美味しく感じた。
やはり濃すぎたのだ。某カレー屋だって某激辛ラーメン店だって、通いたてのことは辛さが弱いものから挑戦するだろう。それと同じである。

そのあと京都をでた。特に友人たちに公開していない旅行なので、京都土産などは買わずに帰宅である。新幹線でちょっと意識を手放しながら帰った。

弾丸旅行・・最高だった。京都ロスが明日から続きそうだ。また行きたい。



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