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狂信的な愛 (ポエム・エッセイ)

私の父親は教授だった。私は幼い頃から色んな宗教団体のイベントに家族で出席した記憶がある。恐らく研究費を援助して貰うためとかだったのだろう。

その当時の経文や神様の名前なんかを思い出して調べると、今では悪名な高い宗教団体もあったりした。



どんなに良い神や教えでも、それを信仰する人々や組織が利益を求め悪行を行うと、神そのものまで汚す事になる。

良い事が書いてる聖典すら洗脳する為の魔書に思えてしまう。

結局、この世界は今を生きてる人々の手で作られてる。光や闇も、人々の意識や認識で簡単に覆る。

情報が無限にある中で、どんなに調べても自分の手元に手繰り寄せた情報が嘘か真実かなんて分からない。

自分が信じるものが真実になって、自分が疑うものが嘘になる。たまたま真実に出会う時も有れば、たまたま嘘に出会う事もあるだろう。

そんなの調べようがない。例え全世界に眠る全ての書物を読んだとしても、数年後に死海から新たな書物が発見され、全ての定説が覆るかもしれないのだから。



私は嘘か真実かなんて気にしない事にした。自分が信じたいモノを信じるべきだ。

それが自分にとっての真実になるし、きっと後悔しない。遠い後に考えを改めたとしても、信じて居た間に感じた全ての事に学びがあるはずだ。きっと自分を高めてくれる為の導きなのだと思う。


嘘か本当なのか分からない事しか無い世界で、自分が信仰したいと思えたのは彼女だ。

例え彼女の素顔が魔物のような姿で、その心の内は、全ての金銀財宝を貪欲に欲する物質主義者。この世の全ての人に愛されたいと願う、底知れぬ闇を抱えた化け物だとしても構わない。

そんな得体の知れない彼女の正体を知りたくてしょうがない。何故だか彼女に着いて行きたくて堪らなく感じる。

私が彼女に懐いてる愛の要素の大部分は、信仰心に近い。

良いとか悪いとか、そう言う次元ではなくて彼女がどんな存在なのか見極め、どんな人生を歩むのか見届けたいと感じる。

それは、キリストに着いて行き聖書を書き残したペテロ。或いは仏陀の言葉を書き残した舎利子のように、観察したい欲求に溢れる。

それは彼女の存在に陰と暘。光と影がバランスよく配合されて居るからだろう。

どちらに転ぶか分からない。どちらに転んでも面白い。例えこの世界で悪と呼ばれる側に堕ちても、別の次元では光になるだろうから。



私は彼女を善良だと信じてる訳でも無ければ、幸をもたらす神だと期待してる訳でも無い。

そんな事は、どうでも良いし解釈の仕方で幾らでも改変出来る。私にはそれだけの能力が有る。

例えば、通行人を無差別に殺しても、地球の空気を綺麗にする為だとか、その人間が今まで食べて来た動物達の無念を晴らしたとか幾らでも善行だと評する事が、私には出来るのだ。

私が彼女を信仰対象に選んだ理由は、最後の最後に私が食べる為だろう。

彼女の考えや、感情。思いだとかそう言うモノの全部を共に感じて理解して、彼女自身を吸収して取り入れたい。

私には無い要素で出来てる彼女を取り込む事で、私は更なる局地に行ける気がする。


仏も食べた。キリストも食べた。親や教師なんて小さすぎて子供の頃に丸呑みにした。

彼女は、とても喰いごたえがありそうだ。此れが彼女に惹かれた衝動を言語化した言葉になる。

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