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ぱっとみ真面目な中間管理職の私が、芸人に憧れて芸人を諦めるまでの10年間(11)

今年ディズニーランドと一緒に40歳アニバーサリーを迎える、見た目も平凡、人生も平凡、中間管理職が天職の私が、18歳から28歳まで芸人になりたくてくすぶっていた話。そして、きっぱりあきらめた話。

やっぱりお笑いが好きだった

人を爆笑させ、鼻から牛乳を出させる力のある、お笑いというものがこの世で一番素晴らしい。
・・・という考えは変わっていなかった。
だったら、「芸人」もさることながら、
「スタッフ」のほうも並行して検討してみるのはどうだろうか。
ちょうど、吉本興業が前年くらいから、スタッフの養成所も設立していました。

スタッフ養成スクール

私は勇気を出して1年間のスクールに入学しました。
同期はほとんどが大学生で、高校生もいました。25歳を超えている人はかなりの少数派です。
ディレクター、プロデューサー、グッズ制作、イベント運営、照明やカメラや音響、マネージャーなど、芸能界にはたくさんの仕事がある。実際の現場に立ち会えたり、実施に仕事にしている人の話を聞く週2回の授業。
私は主にAD、映像制作にかかわるようなゼミを選択しました。
ここで私は、また第2の青春を過ごすことになります。

相方を見つけて、ネタ見せの日々

並行して私はSNS(当時はコミュニティサービスが少なく、「芸人募集掲示板」みたいなものしかなかった)で相方を探し、「ブラックマヨネーズ信者」の8歳年下の関西出身の男性とコンビを組んでM-1を目指すこととなりました。
私はそのころ「アンタッチャブル」が一番面白いと考えていました。
(なぜそんなにもあわなかったのかいまだによくわからないですが)彼とは笑いの趣味がまったく合わなかった。
ネタは双方で持ち寄り、一つのネタに統合していく方法にしました。
毎週末、人気のないどこかのビルのロビーに集まり、大声でネタ合わせをして、今なら「地下ライブ」と呼ばれるようなライブのネタ見せに行っていました。
巡回の警備員さんがなぜ一度も私たちを止めなかったのか。
寛容な国だと思います。

私は「今回こそは悔いを残さない」と決意し、もう一度お笑いに情熱を注ぐことにしたのです。
しかし、その終わりはあっけないものでした。

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