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大人の社会 子供の世界

ミニ歓迎会でした。所長夫妻のご自宅に招いていただき、地元産の食事と、地ビールをいただき、全部美味しかった…。

ご夫妻の若いときのヨーロッパ旅行の話、オリンピックの話、最近の建築の話、所長のアトリエ所員時代の話など、色々話せて楽した。それらに通底する考えに、すごく頷ける箇所が多く、ここに来て働き初めて、間違いじゃなかったなぁとしみじみ感じた。


特に、親の仕事を知らない子供が、近年多いのじゃないのかという話が深く響いた。
僕自身も確か高校生ぐらいまでは、「父は家電メーカーのエンジニアで、母は近所の食品卸のパート」しか知らなかった。
大学院を経て仕事の枠組みを大まかにわかり始めたと同時に、より詳しく親の仕事の内容に興味を持ち始めた。そこでようやく仕事の先に広がる、「社会」の存在に触れられた気がする。

親の仕事は「会社に行くこと」という認識止まりでいると、社会について触れる機会なく、僕達は大人になってしまうことになる。
なにせ、子供は子供で忙しく、学校が終われば習い事があり、その僅かなスキマ時間にはインターネットが待っているので、大人と子供の時間が重なる瞬間が極端に少なくなっているのは、都会では特によく言われている。

いざ大人になり、社会の一員になったにも関わらず、どのように社会に対して自分を位置付けたら良いのか、どのように社会に貢献したら良いのか(貢献しなければならないとは全く思わないけど)分からなくなるんじゃないかと感じたし、実際僕自身も、僕の周りにいる数人の同世代の人も、同じような類の壁にブチ当たってる気がした。社会に対して思うことはあるけど、どうアクションを取ったら良いか分からない感覚。しかも皮肉にも、いつ子供から大人になったなんて、本当に誰も分からない。(僕もまだ子供だと思ってる…。)

それが社会の一員といった当事者意識が中々芽生えてこない結果に繋がり、政治無関心層の出現や投票率の低下、都市の行き過ぎた開発、などに現れてきているのではないかというのは、僕の暴論。
もしかしたら永遠に非当事者で生き続けるかも知れないし、非当事者でもなんとか生きていける時代になってしまったとも言える。
銀座にギラギラのビルが建ったところでカンケーねーし、っていう人がほとんどだし、確かにカンケーないのもほとんど。オシャレなカフェできてラッキー、ぐらいの私と社会の関係性。


ミニ歓迎会の途中、酔い醒ましも兼ねて犬の散歩へ行った。少し近所の人にもご紹介してもらったり、町のことも少しずつ教えて頂いた。もちろん夫妻のお子さんも一緒に歩き、一緒に話し、一緒に犬を連れて、初めて合う島外の子供とも挨拶をし、同じ時間を共有した。この町では大人の社会も子供の社会もひとつながりになっているのが、肌で感じれた。仮にこの街に10階建てのビルが建つ計画が出てきた時、この子は大人と同じ熱量で、大きな声を出せるなと確信できた、台風明けの夜でした。

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