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#02 アパートの窓は黒かった

昭和の高度成長期には、公団住宅が次々に建設されました。今のような高層マンションではなく、5階建てエレベーターもないアパート。それまで人が住むところは地面に接していたのに、空中の部屋に暮らすことになりました。
 
まさに家というより部屋。そこにはお風呂だってあるし、水洗トイレだってある。銭湯に行かなくてもいいし、ぽっちゃん便所の異臭からも解放されました。それがとても都会的なイメージとして「団地族」ということばも生まれました。我が家族もまた、横浜にある公団住宅の4階、2DKの部屋にチンと収まったのです。

当たり前の風景を当たり前ではなかった?


小学校低学年のころ、学校から歩いて20分ほどのところにある団地に出かけて、写生をする図画工作の授業がありました。
春のうららかな日でした。団地の周りは空き地が広がり、都市化に抵抗する自然の姿が、まだあちこちに残っていました。クラスメートの多くも団地に住んでいたので、写生のために訪れた場所はよく見慣れた光景でした。
 
僕はタンポポを画用紙に大きく描いて、その背景にアパートを配したのです。タンポポは黄色、アパートの壁は灰色、その窓を空色に塗ったのです。当たり前の風景を当たり前に描いただけです。
 
後日、生徒全員の絵が教室の壁に貼り出されました。似たり寄ったりの作品が並びました。春の花や虫がアパートと共に、同じような図柄、色使いで描かれていました。しかしその中で一つだけ、アパートの窓を黒く塗った絵がありました。なぜか目を奪われました。
 

違和感にひかれた1枚の絵


春を描いた空の青、草の緑の明るさに比べて、窓の黒がちぐはぐな感じがしたのです。アパートが眠りから覚めたばかりの生き物のように思えました。その違和感にひかれつつ、僕は心の中でつぶやきました。
 
変なの。窓が黒なんて
 
晴れていて空は青かった。だから窓も空色なのに・・・。
しかし先生は、窓を黒く塗ったその絵をほめたのです。
 
素晴らしい。よく見て描いたね
 
何が素晴らしいのだろう。まったく理解できませんでした。窓が黒いわけがないじゃないか。
 
その絵は間違っている
 
学校の帰り道、僕は遠回りをして団地の窓を見にいきました。夕方の日は傾いて、団地の裏側に入り込んでいました。昼間とは様相が変わっていたので、窓の色を確認できませんでした。納得がいかない僕は、日曜日に写生をした時間に改めて同じ場所に出かけ、窓をもう一度見にいったのです。はたして、
 
窓は黒かった
 
僕は愕然としました。
黒い窓に違和感を持ちつつも惹かれたのは、僕の記憶の中にも黒い窓が刻まれていたからなんだ。だから、友達の絵を見て、眠りから覚めたばかりの生き物のように感じたんだ。
 
もちろん、当時はこんなふうに理詰めで考えていたわけではありません。しかし、初めて「見る」ということの意味をおぼろげながら意識したできごとだったのです。
 

見えていても見ていない?


文章を書くには観察眼を養うことが重要だ、とよく言われます。文章を書くときも絵を描くときも、しっかり見なくてはならない、と。しかし「見ること」は、そう簡単ではありません。「見えている」ことと「見る」は違うのです。見えていても見ていないことが多い。
 
写生のエピソードは、それを如実に物語っています。
 
「青空」⇒「それを映す窓は空色」
 
透明なガラス窓と青空の連想から、僕はこんな図式を頭に思い描き、固定観念に縛られていたのです。黒い窓を無意識のうちに空色に変換して、それを「写生」として再現していたのです。風景は見えていたけれど、見てはいなかったのです。
 
こうした思い込みは、固定観念を醸成します。そして固定観念は、見ることと考えることを遠ざけてしまいます。それは、ことばを奪うことでもあります。
 

ことばを封じ 考えることをやめた王様と側近


童話『はだかの王様』に描かれているように、ばか者には見ることができない布で織ったという王様の服は、事実を見て考えること、真実を話すことを人々から奪う装置として機能しています。
 
ばか者と思われたくないという自己防衛のために、王様も側近たちも実際には、王様が服を着ていないにもかかわらず、着ているのだと自らに言い聞かせ、納得させ、認めてしまいます。自己防衛に囚われた人々は見ることを諦め、ことばを封じ込め、考えることをやめてしまいます。

僕たちが「常識」とか、昨今「忖度」と呼ぶもののなかにも、これに似たプロセスを踏んだものがあるように思うのです。「見えてはいるが、見ていない」という日常の延長線上に、「見えてはいるが、見ないことにする」という方法を生み出します。

見ることから ことばは生まれる

しっかり見て事実を見極め、真実を追求することは、生き方の問題にも大きく影響します。『はだかの王様』では、「王様は裸だ」という子どものひと言が、真実を開く切っ掛けとなりました。
 
一つ一つを確認しながら生きていくのは面倒です。しかし時には「それは本当か?」と考えることは、身に着けておきたいと思うのです。一つの面にばかり目を奪われて、隠された、あるいは見落としている姿を浮き上がらせる力を持たなければ、ことばを使いこなすことはできません。

「見ること」のなかにこそ、ことばを紡ぎ、新たな価値観を生み出す思考の芽が潜んでいます。「書くこと」は「見ること」から始まるのです。

2024年3月1日

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