今更の、村上春樹 『ノルウェイの森』
村上春樹の『ノルウェイの森』の中に出てくる(と記憶していた)直子か緑かレイコさんかの言葉を、昨日電車に乗っていてふと思い出し、久しぶりに夜遅く本棚から文庫本を出してページを繰っていたら、勢い余って上下巻とも二時間くらいかけてざっと目を通してしまった。最後のページまで辿り、結局ひっかかっていたセリフは見つからず。記憶力よ、、。。。でもせっかくなので、かなり今更ではあるが、村上春樹『ノルウェイの森』について、少し書いてみたい。
私はこの講談社文庫上下巻を、2010年の秋に成田空港のTUTAYA書店で購入した。結構特殊な購入経緯だったので、これははっきりと覚えている。当時私は20代半ばで、大学を卒業して美術ギャラリーで半分アルバイトのようなことをして生活していた。まだ何者でもない(今でも何者でもないが汗)プラプラ期で、不安ではあったけれどとても自由な、今思えばなかなか素敵な時間だった。
それまでずっと私は、いわゆる「村上春樹的ナルモノ」とは(読んだこともないのに)、一生無縁で生きていくのだろうなとボンヤリ思っていた。けれどその時の私は、突然海外行きが決まったこともあり、向こうで滞在中に読む本を何も持ち合わせていなかった。とにかくどこに行くにも活字がないと不安な人間なので、何でも良いから精神衛生上、日本語の本をもっていこう、と、フライト直前に空港の書店に立ち寄ったのである。
空港のTUTAYA書店というのは、スペースと場所の特性上、ベストセラーや雑誌の最新号、機内で時間をつぶすためのクロスワードパズルといった「当たり障りのない」本しか置いていない(物理学や中世史の専門書なんて、まあ置いてないですよね)。どうやらその頃は、トラン・アン・ユン監督による映画化が話題になっていて、『ノルウェイの森』もその「無害」枠に収まっていたらしかった。菊地凛子と松山ケンイチが雪の中で向かい合う帯とともに、文庫コーナーの一番目立つ位置に平積みになってその本は置かれていた。
赤い表紙の講談社文庫『ノルウェイの森』(上)は、次の一節で始まる。
こうして、不思議な因果に導かれ?、ハンブルク空港ではないけれど、シャルル・ド・ゴール空港に向かう飛行機の中で読む『ノルウェイの森』が、私の初ハルキ体験となったのだった。やれやれ、またフランスか。
多くの方もご存知のように、この物語には印象的なヒロインが二人登場する、「直子」と「緑」。恋人を自殺で失い次第に心を壊してゆく直子。その対極のように生への光を主人公に指し示す緑。
ちなみに私はよく人に尋ねるのだが・・・、あなたは直子派ですか?、緑派ですか? この質問、結構盛り上がるので(経験上)、ぜひおすすめしたい。ある程度文学好きのメンツが集まれば、かなりの確率で「宮崎アニメで何が好きですか?」的なノリで楽しく盛り上がるか、村上春樹がいかにクダラナイかのアンチ村上議論に発展する。いずれにせよ、どちらの場合も退屈はしないので試してみてほしい。
閑話休題。物語の冒頭、主人公のワタナベくんは、機内で耳にしたビートルズの名曲「ノルウェイの森」のメロディをきっかけに、18年前に交わした直子との会話を思い出す。人が迷い込んで命を落とす、恐ろしい野井戸についての話だ。
10代で恋人キズキを突然の自死で失った直子は、「正しくあること」や「フェアであること」に、病的に、それこそ執拗なまでに執着する。自分が対峙する暗闇を正確に表す言葉をもとめ、直子は言葉を何度も言い澱み、言い直し、時に話の道筋さえおかしくなる。彼女の言葉を理解しようと文字を追う作業は心がとても疲弊するし、正直私は苛立ちさえ感じた。でも、直子のこの「正しさ」への潔癖、「完璧」を求める姿勢は、当時読んでいて何となく理解もできた。
愛する人間がこの世を去った時、残された人間は、どうして亡くなったのが彼/彼女だったのか、なぜ自分ではなかったのか、という存在論的な問いにたたされる。それが病気であっても事故であっても自死であっても、その死は残された者からすれば、理不尽で暴力的なものに変わりはない。その人が死んでしまったという事実と自分自身が今生きているという事実を「理解」しようとする試みは、矛盾をはらんだ行為ですらある。そのような人間存在自体に内在する矛盾や濁りを前にした苦しみが、20歳の直子の厳しい透明感と危うい緊張感をはらんだ美しさを形作っていることは間違いないのだけれど、人は、そんな風に深く暗い井戸の中をじっと覗き込み続けることはできない。そんなことを続ければ、心は確実に壊れ、その闇に飲み込まれる。
おそらく多くのティーンエイジャー同様、私も10代半ば頃から多かれ少なかれ同じような問いに苦しんでいた。何千回、何万回と、ある一つの暗闇をめぐって答えのない問いを繰り返した。私の場合、何が自分を癒してくれたか?身もふたもないけれど、時が解決してくれた。今でも覚えている。24歳の春、一人暮らしのアパートの近くを一人で散歩していたら、川沿いに菜の花が一面に咲いていて、陽光と風が気持ちがよかった。廃品回収車の間延びしたスピーカー音が聞こえ、子供らや犬が遊んでいた。不意に「その時」がきた。ああ、春だ。世界は美しく、私は若い、きっと私は生きていける、そのことを馬鹿みたいに何の根拠もなくふと確信した。(定職もない、プー太郎であるにもかかわらず!)『ノルウェイの森』と出会ったのも、まさにそんな時期だった。
さて、もう一人のヒロイン、緑はというと、主人公のワタナベくんに、「完璧な愛」などというものは求めない。彼女が求めるのはもっと具体的で、手触りや匂いのある何かだ。例えば、苺のショートケーキを自分が食べたいと言ったら何もかも投げ出して買ってきてほしい、やっぱり食べたくないと言って窓から放り投げても、笑って今度はチーズケーキを差し出してほしい、といった具合に。「なんとも理不尽な話だ」、と反論するワタナベくんに、緑はこう返す。
緑の口から発せられる言葉は、直子のそれとは対象的に、どれも非常に散文的で時に下世話なものでさえあるのだけれど、その全てが、1960年代後半の東京に生きる「緑」という人間の血と肉から発せられたものなのだ。都電荒川線大塚駅をおりた商店街の一角で、「戦争と平和」も「ライ麦畑」も「性的人間」もおいていない小林書店を実家にもつ娘、小林緑というこの世界にたった一人しかいない少女の、温かな血の通った言葉。当時の私はようやく「緑的な何か」をつかみかけていて、ようやくようやくこの世界で生きていく言葉を獲得する時期にさしかかっていたのだと思う。だからだろうか、直子の危うく儚い美しさも、緑の逞しい優しさも、どちらも本当に、『ノルウェイの森』を読んでいて、当時の自分の心にしみわたったのだと思う。
あれから10年経ち、ミドサーになって思う。あれほど苦しんで生きた「直子的な何か」は、今の私の日々の生活から確実に遠ざかっている。なのだけれど、それが完全に自分の中から消えて無くなってしまったか?というと、答えはNOである。それは自分の心の中の暗く柔らかな井戸の奥深くに確実にあって、「ノルウェイの森」を聴いたワタナベくんのように、ふとした瞬間に私の眼前に立ち上る。私たちは誰しも皆、「直子」も「緑」も、どちらの存在もきっと必要としていて、その二色を、折々のタイミングで適切な美しい塩梅をみつけて配置し(上下巻の表紙の赤と緑の配分のように)、人生の舵取りを行なっているのではないだろうか。
『ノルウェイの森』が文学史的に名作なのか、正直私にはわからない。世界的ベストセラーとは言え、結局のところ、凡百とある恋愛小説の一つなのかもしれない。私が言えるのは、この物語は自分にとって大切なものであるという個人的な経験、あとは「あなたは直子派ですか?、緑派ですか?」という、こんな楽しい話題をつまみに、三時間くらいは楽しくお酒を片手に語れるくらいには自分は大人になった、ということくらいだ。
(私が直子と緑のどちら派かというと、時期によって結構コロコロと変わる。ジブリ映画は、「魔女宅」と「耳をすませば」、、!笑。。)
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