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静かに、爆ぜる。

なんの目的もあるわけではなかった。

ふと、クラシックを聴きたいな、と思ったのだ。

初めてのことである。

なので、辻井伸行のコンサート映像をアマゾンプライムから再生したのは、そんな心持ちが成した技なのだろう。感動した。何に心打たれたのかはよくわからない。私は時々、これまでも急にピアノ曲を聴きたくなることがあり、そのなかでも印象的なのがラフマニノフなので、youtubeで検索すれば彼のコンサート映像はすぐに出てきていた。だから、アマプラで彼の名前をタイトルに観たとき、再生したのだと思う。この感動は彼が盲目だから、誇大効果を感じていたく染み入るのだろうと思っていた。だが、初めて独り暮らしの環境で彼のコンサート映像を流したら、なにやら違うところに自分が感動していると思った。喝采を浴びてアンコールに彼が奏でる曲の、あれ、地味な曲、と思ったのだ。地味なのに、なんでこんなに染みるのか。しかも静かに。なぜこんなに切ないのか。そのとき当然、こう思った。音楽は神に捧げる祈りなのだ。それを彼は現世において、彼の人生を土台にしつつ、体現しているのかもしれない、ただそう思った。荘厳として、優しい、そう思った。

そこでクラシックをもっと聴きたいという、わずかな欲求が現れたのかもしれない。

なぜそれを聴きたくなったのかは、わからない。ただ、思い出しただけなのだと思う。

ビバルディの「四季」、それも、「冬」を急に聴きたくなった。

だからyoutubeで検索したら、動画広告が流れて、クラシックなのにこんな広告を観なければならないのかい、とも思った。ターゲティング、間違えてやしませんか、と。

サビのメロディは、暖炉のはぜる焚火を表していると、誰かに独り言のように聴いたことがある。母だったろうか。今聴いて抱くのは、冷たい激しさ。真っ白な世界で切に求める命の激しさ。なんて、激しい。閉ざされた世界で人間同士は、いらだちをぶつけ合うのか? いや、もっとどうしようもない何か? そして悲しく迸る。冬はきっと命の差配を自然に求められる季節だったに違いない。

そして、おそらく誰かに「最近ハマっている音楽は何?」と尋ねられたら答えるのを躊躇するであろう音楽に身を任せた。

ハマっている?

いや、ハマっているわけではない、……多分。

舞台が好きなのでしょう? と誰もが純粋な好奇心で尋ねるが、ずっと、なにかが違うと思っていた。いや、きっと、好き、じゃない。正直に応えれば。

この作品を聴きたいと思った自分と、世間一般との距離のちょうどいい地点が分からない。

私たちは、ただ、作品を味わうという条件をすでに奪われているのかもしれない。

なんとなく、言葉にならないもの、整理できないものを感じるために、何かにしみじみしてはいけないのだろうか。

作品の時間と、作品を味わう観客の時間と、目に見えない強制の外界の時間との間に、私は、生まれたときと季節に苦しめられようとも、私の感性で誰かの表現を味わっていきたいと思った。それは明確な欲求として言葉に表れる前に、ただ、必要として、私から見える遠い彼方に手を伸ばせば、たしかにある。

ああ、きっとものすごくシンプルだ。私はこれを聴きたかった。これを聴く自分に出会いたかった。

作品そのものではない。作品を通して、私は生きている今にそれを重ね、色々なことを思うのだ。そう、この静謐な炎を前にして。

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