【過去記事】20170120 うただからあなたにいえること

別のブログに書いていたものを一箇所にまとめるプロジェクト。その13。少女漫画って、もしかして大人になってからの方が面白いのかも。読んでいる作品の数が増えれば増えるほど、作者の細かい意図と工夫を、より楽しめるようになるというか。少女漫画を読むか少年漫画を読むか青年漫画を読むか、という社会的な暗黙の強制に臆することなく、いや、読みたいもの読むわ、と言えるくらい大人になってからの道楽。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

― 愛に触れると誰でも詩人になる。(プラトン)

正月休みに思う存分ぐでぐでする延長線で、電子書籍で少女漫画を大人買いしだらだらと読んでいたら、図らずもはまってしまった作品がある。『電撃デイジー』(最富キョウスケ、小学館)というやつ。


うーん、タイトルを声に出すと何やらこっぱずかしい。


主人公のヒロインは高校2年生。奨学金で学校に通い定期テストは毎回学年1位という秀才だ。おまけに中学生の時に唯一の身内である兄を亡くして以降、赤貧の中つつましく健気に生活しているという苦労っぷり。見目麗しき幸せな存在のヒロインが惚れた腫れたしちゃってどうしようという話は現代では通用しない。本作もそれに違わず、主人公は真面目で健気、かつ若干おやじっぽいセンスを兼ねそろえた努力家という点に、いやらしさを薄める効果があるのではないかと思われる。


そんな彼女には、システムエンジニアだった兄が、遺品として残した携帯電話(ガラケー)があり、それは兄が信頼する「デイジー」なる人物との交流手段となる。主人公は「デイジー」とのメール(声に出して読むと恥ずかしい)のやりとりが自分の心を強く保ったり弱さをさらけ出したりできる唯一の方法、繋がりとして、やがて会えない「デイジー」への思慕を募らす。


お察しのとおり、この「デイジー」は当然主人公の現実世界の身近にいる人物で、彼女が通う高校の校務員として働いており、あの手この手で主人公を守ろうと陰ながら(?)奔走している。そんな彼との日々の中で、ヒロインは現実世界の彼に恋をする。


「デイジー」の正体は物語の序盤でとっくに読者には明かされているし、ヒロインが現実世界の彼に恋をし、また彼もヒロインに恋をして両思いになっているのもかなり前半だ。この話が読ませるものになっているのは、思いが通じあっているのにも関わらず、明確な言葉にして恋人同士になれない壁について、複数の登場人物とエピソードを織り交ぜて丁寧に心情の変化や決意などを描いていることや、現実では言えないこと・メールだから言えたこと、つまり対面でないからこそ伝える意思をまとった言葉の描写が興味深いからだと思った。


本当にだれかを大切に思う時、現実社会のルールを無視することはできず、ゆえに手を伸ばすことのできない理性との葛藤には、誠実なリアリティがある。


恋愛の行方と同時進行で、なぜ中盤からFBIを舞台にした海外ドラマのような設定とストーリー展開が持ち込まれているのか、冷静になると疑問だが、さらに冷静に考えれば、都合よく風邪をひいて弱ってる間になんか色々あるとか、突如ドレスアップのシーンが描かれて地味めなヒロインもちゃんとかわいいみたいな王道の設定もそういえばあり、もうそのへんの細かいところは気にしなくていいか、という気持ちになる(そもそもずっと見守っていたのに、急接近するのがなぜ高校2年からなのか、とかもよく考えると不明)。

気になるひとは本編を読んでくれればいいと思うが、彼が思いを告げられない理由の一つに、彼自身の過去がある。「デイジー」はかつてハッカー(本編では正確にはクラッカー)として犯した大きな罪を抱えて生きている。幼いヒロインは幼いなりに明かされないその気配を感じ、また、自身の体験からそれを抱える人間の苦しみに思いを馳せつつ、しかしそれに対峙する方法は、許す・許さないの二項対立の答えだけではないと、自分で考え、決意して言葉で告げる勇気がある。人と関わる中に、新しい始まりが提示されるというその描き方が、私には印象的だった。


そしてもう一つは、ヒロインが未成年の女子高生であるのに対し、彼は歳の離れた社会人であり、恋愛感情にまかせて互いの関係性の距離を変えることが、最も彼女を傷つけることなのではないかと苦悩していることである。


最終的にはきちんと思いを伝えて「恋人」という関係性を築く決意を固めるのだが、その前には彼が姉のように信頼している元同僚への報告と、彼女から釘を刺されるシーンがあり、これがあることによってこの作品の信頼度が上がっているように感じた。

「あんたは良くても 何かあればあの子が傷つくのよ」/「社会の目が厳しいのも重々承知してね どんな事情があろうと他人から見りゃルールも守れない馬鹿な若造どもなんだから」/「誠実な態度で周囲の信頼を得る努力をしなさい 自分たちだけの世界に浸らないように」(『電撃デイジー』14巻より)

このシーンのこの台詞、とても大事だなあと思うとともに、私が「おおかみこどもの雨と雪」をどうしても好きになれない理由がはっきりわかったような気がした。自分はおおかみ人間で、人間社会のルールに沿って生きる必要はないかもしれないけれど、残った彼女はその中で生きていかなきゃならないじゃないか。そんな早々に死なれちゃったら、その手助けもしてもらえない。冒頭で娘が「母は奨学金で大学へ~」みたいな説明もあるけど、彼との愛情のためには、恐らくそれも捨てなければならなかったよね、と。それに対するほんの少しの葛藤と配慮を見られなかったことが、多分もやもやの原因だったんだ。


脱線したので話を『電撃デイジー』に戻す。


丁寧な気持ちの描写もそうだけれど、別の角度から面白いなと思った要素が、作中に登場する様々なコンテンツと、それが持つ暗喩の役割であった。


たとえば、ヒロインが何気なく「デイジー」という名前の由来を尋ねるところ。彼女は気軽な気持ちで、花の名からつけたのだろうと想像していたが、彼は「デイジーカッター」という兵器の名からつけたのだと明かす。それは、彼の在りし日の浅はかさと愚かさ、それに付随する罪を告げることにつながる布石である。作品を読んだあと、しばらく調べるためのネットサーフをしてしまった。それ以外にも、後半にやはり軍事用語を結びつける台詞が出てくる箇所がある。そこから、パソコンの発達は軍事システムのための研究でもあったというような話をふと思い出したりもしたのだ。


また、作中ではあたたかい過去のエピソードを描く際、「Daisy Bell」という曲がしばしば登場する。メロディーが思い浮かばなかったのでYouTubeで曲を聴き、歌詞を調べたりしていたら、この曲は世界で初めてコンピュータが歌った歌として知られるだけでなく、映画「2001年宇宙の旅」でコンピュータHALが歌うシーンがあるという逸話持ちの曲だった。


読んでもらうとおわかりの通り、この歌の詩は、ものすごくシンプルでストレートな愛情表現の言葉だ。詩だからこそ、言えるようなこてこての甘く美しい詩だと思った。学生時代、ボルヘスの『詩という仕事について』という本を読んだのだが、その中に例として出てきた、「I will love you forever and a day」のような。思いの強さに言葉の持つ技法を全て使って、単純に優しく伝えるための言葉だと思った。


情報機器がここまで進化し、人の生活の手段として身近になると、どの時点でだれがどこまで想像していたんだろう。ヒロインの恋人が抱える罪はつまり情報社会における現代ならではのもので、たくさんの人を傷つける技術だ。でも、同じ技術で、人が何かに託して歌わせたかったのは、愛を伝えるための詩なのだ。


「愛が、何をおいても、
われらの歌う時の標題であれ。
愛が歌にしみわたったら、
一そうよく響くだろう。」

最近知った、ゲーテの言葉を思い出した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?