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スマホ時代の哲学(プラグマティズム入門)

谷川嘉浩さんの本「スマホ時代の哲学」を取り上げたPLANETSCLUBの講座に参加しました。
谷川嘉浩さんの著作に触れること自体がはじめてで、大変興味深く楽しく講義を受けました。早速著作を読んで先々の不安な生活にヒントをもらったように感じました。特に「孤独」との向き合い方に自分の迷いを肯定して貰ったようで読み終わって嬉しい気持ちになりました。
さらに講義に受けて考えたことを3000字の小論文にする。という添削講座にも参加しました。講義を受けて終わりではなくアウトプットすることでさらに理解を深めました。

提出した小論文に添削講座で指摘された点は、前半のプラグマティズム論と後半のスマホ時代の哲学が上手く接続されていないことでした。そのため後半はスマホの話に終始し主題から離れ小さくまとまってしまい表面的な議論で終わったことを指摘されました。
その接続こそ自分なりの考えで論じるべき点でした。
指摘を踏まえ、書き直しました。

「スマホ時代のためのプラグマティズム入門」の講座を受けて。

昨今のアテンションエコノミーと言われる関心経済やスマホ依存は社会的に問題となっています。誰しも身に覚えがあるこの問題について語られた今回のゼミは谷川嘉浩さんの著書『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』をベースに語られます。
著者は哲学者でプラグマティズムの専門家です。プラグマティズムとは、よく、「行動する。または実践する。」と説明されます。しかしここで著者が提示するのは、すぐ行動する。ということではなく、実践することをスタートとし仮説、実験、検証を重ねていくことを指します。著者は専門分野の特定の哲学者の言葉だけ引用するのではなく、先人の哲学の巨人たちが折角悩んでたどり着いた理を利用しない手はない。と言います。今回のゼミでもこだわりなく哲学者の言葉が引用され、縦横無尽に話が展開していきました。哲学者の軌跡は問題解決の歴史であり普遍的な人類の課題に向き合う時、現代ではショートカットになるのです。
大抵こうしたゼミに参加すると「自分の頭で考える」と言われるものです。その前提がこのゼミでは転倒します。昔からこの「自分で考える」が縛りとなって、果たして今自分の考えていることは誰の思考なのか。と問いたくなります。この前提が難しく出来た、出来ていると納得感を持って思考した覚えが一度もありません。自信を持って自分の考えだと宣言出来る事柄とはどんなものなのか。著者はその疑問に明快に答えを出します。実は私たちはもう考えているのです。しかも、その精度を上げるには天才の視界を借りる、という手段があると言うのです。それは自分の頭で考える、というお題目に目を奪われ迷子になっている自分の思考を肯定してくれました。他人の頭を借りて思考する。天才たちのゴールから始め、問題提起の条件に合った哲学者を適宜引用し考える。なるほどアプリを使いこなすよう問いに応じて視界を変えながら答えを求める。それは哲学を身近に置けるよい手法です。しかしスマホ時代の哲学とは、単に引用する概念をアプリのように手軽に持ってくることだけを言うのではなく、現代人の抱える寂しさや孤独を哲学で考えようという態度なのではないでしょうか。現代の、その問題の多くはコスパやタイパという言葉に代表されるように効率を優先するあまり物事にじっくり向き合う時間を奪われ情報に埋もれてしまうことで逆に不安を抱えてしまい、例え人と会っていても、多くの人々に囲まれていても不安になり孤独を感じてしまう。スマホの常時接続によって目の前に居ない人とも繋がり同時並行にタスクをこなしていながらその不安は解消されません。その孤独と何となく不安という状態に我慢できず、スマホを手にして自分に現れてくる退屈を紛らわし、忘れさせる。著者曰く「程よくチル」な状態に、人々は夢中になってしまった。恐らく大抵のひとはこの依存に自覚があるはずです。大なり小なり抜け出したいと考えているのでないでしょうか。ではどうしたらよいのか。根本の処方は現代人の悩み「孤独」について考えてみることにあるように感じます。
現代人の「孤独」とは何なのでしょうか。
本来「孤独」は物事に向き合うときに必要です。没頭して集中する必要があるからなのですが、それは自分自身と向き合うことです。仕事や人間関係、向き合いたくない現実と対峙する必要があります。必ずしも心地よいことばかりではありません。そのジレンマの隙間を埋めることが趣味や気晴らしなのですが「程よくチル」なスマホは手軽に気を散らせ紛らわせる機器として最適な上、さらにネットの関心経済は承認を簡単に得られそれを可視化してしまいました。そうなるように設計されているのだから仕方がないのですが、そうなるとどれだけSNSの振る舞いでいいねを集めても、孤独の寂しく辛い面ばかりが浮かび上がります。そしてそれを強調して悪とする風潮、雰囲気は現実との乖離に苦しむ人々を増やしました。
それではスマホから距離をとるための実践とは何なのでしょうか。
それは創作と反復だと著者はいいます。プラグマティズムの概念である仮説、実験を繰り返し、反復することです。
趣味や夢中になれることに没頭し何かを創る。上手くなるために修練し反復する。孤独は本来いけないものではないのです。改めて自覚して身近に「孤独」を置いて没頭すること。
しかし、ここで問題が生じました。
主催者との議論でも遡上にあがりましたが「ひとはそこまで創作が好きでは無い」問題です。ここまでで何度も上がっていたタイパの問題がここでもネックとなります。習得まで時間のかかる趣味はコスパとタイパが悪いからです。
著者と主催はそれでも、黙々と物事の対象に向き合う姿をみせること。と言います。言葉のメッセージは案外弱い。それよりも反復する姿をいつの日か断片でも思い出せたらよい、くらいの温度で向き合うのが今の最適解と落とし所を伝えてゼミは終了しました。

我々はそれほど創作が好きでは無い。時間を忘れて没頭する経験はないとは言いませんがそうそうあるものではなく凡人にはそこまでコミットする理由がありません。それでも没頭できる何かをみつけたいものです。卑近な例ですが、母は80代で趣味も何もない。と嘆いていました。仕事一筋で後悔しているとのこと。趣味は探すものでも、作れるものでもないのです。そんな時にもヒントはあります。子どもの頃夢中になったものは本来の自分、素の自分の求めるもの。また子ども時代に繰り返し反復して練習したものは身体が記憶しています。
児童クラブ支援員として勤務していますが、6〜12の小学生には指先の神経系の発達を促すために昔ながらのおもちゃや道具で遊ぶことを推奨しています。けん玉、折り紙、編み物、縄跳びなど。なるべく指先と身体を使って遊びます。その経験は身体と神経、また脳の発達に寄与します。子ども達はかなり集中してそれらに取り組んでいます。そもそも子ども達は身体を使って遊ぶことが楽しいわけです。その時代にスマホなど最初から集中をそらす機器を与えていては、集中する経験まで奪ってしまいます。なるべく忌避した方がよいのは明らかです。大人でさえそのループから抜け出せず困っているのですから。夢中になった経験は後々の自分の孤独を癒す財産なのです。
こうして、何をしたいのか一度昔を思い起こすことをしてみると、この「何となく暇」のループから抜け出せる契機があるのかもしれません。この暇は本来孤独が好きで、自ら求めている人も捕えてしまうこともあるでしょう。では、思い返しても何も思い当たらず、創作が好きでは無い我々に残された手段は何があるのか。覚悟を決め、離れるために物理的にスマホをしまう。一旦何か行為を挟んでスマホに触る。そうした自分なりのルールを設けて向き合うことぐらいでしょうか。そもそもスマホ自体が問題なのではなく、人の孤独が問題なのです。孤独と向き合うと必ずセットになって不安がついてきます。その不安が本来人々が孤独に向き合うことを躊躇う根源なのだと思うのです。その不安を制するために創作、制作に没頭するとこを提示されたのです。それを実践するためには、その事を自覚しスッキリしないまま向き合う姿勢、ネガティブなことを抱えたままそれはそれで一旦置いておき孤独と不安に向き合う。こうした態度をネガティブケイパビリティという概念で説明し、実践を提唱しておられるのが著者の意図であり、今回のゼミの意義なのだと思います。白黒つけなくてもそれを受け入れる。放っておく。それが肝要なのです。
私自身は「孤独」いえ、自分の「不安」を飼い慣らすためにも、子供の頃に反復した習い事に関心を向けています。集中した記憶も上手くなる喜びもありました。そこに対峙することになれば「孤独」との対話も、「何となく暇で不安」も薄れる体験がイメージできます。そうした時間を増やし孤独と向き合うことに真摯になる。これを仮説、実験、反復とみることが出来ればプラグマティズムの実践と言えるのかも知れませんし、また断片だけでもという著者の気持ちに応答できるのかもしれません。
良い講義でした。ありがとうございました。

以上、上手く応答が出来ているかどうかは分かりませんが、少なくとも講義に参加して私は「孤独」と対峙し飼い慣らす糸口は見つけられました。
小論文を書くことで思考は深まりましたが思考の足りなさにも気づくことが出来ました。良い機会でした。

#スマホ時代の哲学
#谷川嘉浩
#PLANETSCLUB




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