【短編小説】鉦鼓【阿波しらさぎ文学賞一次落選作】
徳島の空は色が薄くて嫌いだ。
高く上がったライトフライは否応なくその色に吸い込まれ、落下地点を狂わせる。その後に続くのは保護者の悲鳴と監督の怒声で、相手チームの「回れ回れ」という言葉だけが嫌にハッキリ聞こえたのは、相手チームが一塁側ベンチを使っていたからという訳ではないだろう。
何をどうしたのか分からないまま次の打者を迎えた時に、一人だけライトにポツンと取り残された錯覚に陥る。早くこの回が終わって欲しいと思う。でも、ベンチに戻ると監督に殴られるだろうから、この回が一生続いて欲しいとも思う。いっそ大爆発でも起こって、試合自体がうやむやになればいいのに。
母の故郷である徳島で試合があると聞いて、色めいて祖父母が応援に来た。母も嬉しそうだったけど、私は見に来て欲しいと思ったことはない。むしろ見ないでほしい。
「応援」などと耳当たりの良い言葉で都合よく見に来るのだけど、あれは自分たちが見たいだけなのだから、恩着せがましい言い方はせずに正直に見たいと言えばいい。だとすると、「見に行ってもええか?」とまず私に許可を取ることが必要であろう。彼らに見に来る権利があるのなら、私には見られない権利があるはずである。
エラーをした時はそんな言い訳ばかりが頭に浮かぶ。その試合は負けたのだけど、試合後の円陣で私が監督にシバかれたのを見ていたであろう祖母は、「よう頑張ったな」と言い、祖父は「下手くそやな」と本心なのか、祖父なりに場の雰囲気を明るくしようとした冗談なのか分からない言葉を投げつけた。私は泣いて、その場の雰囲気をもっと悪くした。
『大鳴門橋学童軟式野球大会』馬鹿みたいに長い大会の名前を今でもはっきり覚えている。
高校でも野球を続けていたのは、父に「辞めたい」と言う勇気がなかったからだ。キャッチャーになって、空に吸い込まれてゆく打球を見る機会が減ったのは良かったが、たまに上がるキャッチャーフライは、その比にならない位捕るのが難しい。
毎年春休みには四国遠征に出かける。試合漬けの三日間。
私が三年生になる年の遠征一日目の試合で、牽制球にヘッドスライディングで帰塁すると、高く逸れた送球をファーストがジャンプして捕り私の右手に着地した。着けていた手袋が破れていた。慌てて手袋を外すと、小指の付け根が割れ、黄白色の断面から赤黒い血が溢れた。徳島に来ると碌な事がないと思った。不思議と痛みはなく、私の手を踏んだファーストに「気にせんといてな」と彼のケツをポンポン叩いて格好つける余裕もあった。彼のユニホームに少し血がついたが内緒にした。
その場で交代となり、水道で傷口を洗い流した。少しでも痛みを感じないように小指側の手の甲を強く握りながら恐る恐る水をかけた。知らない女性が私の隣で「痛いな、痛いな」と掛け声をかけていた。
試合に出なくて済むことが嬉しかった。ピッチャーをしていた友達の父親に車で病院へ運ばれた。傷を縫い付ける前、歯ブラシの様な器具で傷口をガシガシ洗浄させられた時に、今まで忘れていた痛みを思い出した。
私の徳島遠征は事実そこで終わったのだけど、病院に運ばれるまでの道中で、受験しようと思っていた徳島大学薬学部のキャンパスを見た時は少し嬉しかった。結局、センター試験の結果が振るわず、地元の大学に行ったので、いよいよ徳島には良い思い出がない。小指の縫い跡だけが今もはっきりと残っている。
紀伊水道を隔てただけで空の色が変わるわけもないのに、あまりにも徳島の空の色が薄く見えたのは、これらの思い出によるものが大きいのだろう。
婆さん危篤と連絡を受け、その日の午後と翌日の有給を取った。一度帰宅し、諸々の準備を済ませ和歌山港に向かった。
近頃、痴呆の様な症状が出てきたと母から聞いていた。母は母の姉、私の叔母からその情報を聞いたようで、伝言ゲームのように情報が伝達された。年明けに顔を出した時は、四人の娘と十二人の孫、四人の曾孫の見分けがついていたので十分であろうと思ったが、一親等の者からすれば、些細な変化、それがたとえ老いからくる至極真っ当な記憶力の低下であったとしても気になるのだろう。言葉もはっきりしていたが、いささか顔のシワが増えた様に感じた。帰りがけに「また来いよ」と言われたがそれっきり会っていなかった。港町特有のデカい声と粗暴な言葉遣いが苦手で、それは親戚達のほとんどがそういう話し方をするものだから、盆や年始の集まりにも顔を出す機会が減っていた。
フェリーの搭乗券は仕事の合間でネット予約していたが、結局フェリー乗り場で搭乗受付をしなければいけないので、二度手間で面倒くさい。
車ごとフェリーに乗り込み、誘導のおじさんの指示通りに駐車した。誰かに見られているという事実がいつも通りの動きを困難にする。アクセルの踏み加減はこの程度だろうか。ブレーキを急にかけるとおじさんを驚かせてしまうだろうか。車はまっすぐになっているだろうか。おじさんに運転が下手だと思われていないだろうか。考えるほどに体の微細な場所にばかり意識が向き、舌はどのポジションが正解なのかとか、息を吸う強さはどれくらいだったかとか、そんなことばかり気になって、そうする程にいつも通りが分からなくなる。
いつも通りでは無いのだから、これはいつもの私ではなく、それによっておじさんから悪いイメージを持たれるのは不本意だ。でもおじさんからすれば、いつもの私では無い私は紛れもない今ここの私なので、言い訳することもできない。おじさんは次の車の誘導に向かったので、私の駐車は及第点だったのだろう。車の前を通り過ぎる時おじさんが、チラッと助手席に投げ捨てられたペットボトルを見た気がした。
出航後しばらく経ってからデッキに出た。すでに和歌山は泳いでも戻れないほど後退していた。かき混ぜられた水面に白い泡が筋になって道を作っていた。
病院に着くと、昨今の感染症のせいで病室に二人しか入ってはいけないと言われた。申し訳なさそうに腰を折りながら伝える背の低い看護師の姿がより一層小さく見えた。この人は困らせてはいけない、と思った。叔母に、促されたので、「ばあ、誰かわかるか? 来たで」と問うと「ああ……分かる」と返事があった。返事があるのに危篤と言っていいのか分からなかったが、皆が危篤と言うのだから危篤なのだろう。聞けば意識があるわけではなく、ずっと夢を見ている状態のようだ。
祖母の隣に座ったが特にすることも無く、ゆっくり落ちる点滴や袋に溜まってゆく尿を見ていた。内臓の代用品を繋ぎ合わせて、かろうじて生きていた。
従兄妹が多く、その後も次々と見舞いに来るものだから病室にいられたのはほんの数分であったが、祖母の声を聞けたのは良かった。座っていた丸椅子から立ち上がるまでに時間がかかったのは、祖母の結末を分かっていたからかもしれない。
「ばあ、また来るで」
うんうん唸る祖母に挨拶をした。
「ああ、えらいすんません」
泣いているような発声であった。
「ばあちゃん、誰が来てるか分かってないやないの」
叔母と私で声を上げて笑った。
「ばあちゃん、一番よう使った言葉がすいませんやったもんね」
叔母は過去形を使った。叔母も祖母の結末が分かっていたのかもしれない。
病室を出て「交流ルーム」と書かれた窓際の一角に、忘れ去られたように置かれていたパイプ椅子にそっと腰掛け、今しがた聞いた「えらいすんません」の言葉を頭の中で反芻して、ああ、なるほど、実に立派な言葉であったなと、思った。
おそらく小学校の低学年の頃。祖母の家に従兄の翔ちゃんと泊まったことがある。一番覚えているのは夕飯のことで、食卓にたくさんの魚料理と焼きそばが並んだ。祖父は一人土間で食べていた。田舎料理の中に焼きそばは、幼いながらに違和感を持ったけど、言わないでおいた。祖母の作ったイカの煮付けは真っ黒で美味しかった。イカばかり食べていると「これも食べろ」と同じくらい黒い足の皮みたいなものを渡された。
「なにこれ?」
「ゆべし」
翔ちゃんを見たら、目で「お前が食べろ」と言っていたので、先っちょを齧った。味が濃かった。それくらいの歳の頃は、味が濃いものは美味しいし薄いものは不味いと思い込んでいたから、美味しかった。
「ご飯ある?」
「あるで」
ゆべしとイカでご飯を三杯食べた。
「お前は金かからんな」
金がかからないは褒め言葉の様な気がして嬉しかった。食後に祖母がスイカを切ってくれた。翔ちゃんとどちらが早く食べれるか勝負をしていると、酔っ払った祖父が土間から祖母にスイカを投げつけた。スイカは祖母の頭に当たって赤く弾けた。あまりにも急なことで、「ばあの頭が爆発した」と思った。翔ちゃんが泣き出し、祖母が「大丈夫やで」と翔ちゃんに言いながら畳に散ったスイカを掻き集めていた。私は、祖父のその行動の意味がわからず、意味がわからない大人の行動が怖くなって、今しがた食べたスイカと夕飯を全て吐いた。吐きながら、掃除大変そうやなとまるで他人事のようにその吐瀉物を眺めた。
祖父は勝手口から外へ出た。酒を買いに行ったのだろう。
「お前は金かからんけど、手かかるわ」
祖母は頭からスイカの汁を垂らしながら笑っていた。一緒に畳を雑巾で拭いたけど、畳の目に擦り込むばかりで、あまり綺麗にならなかった。
かなり時間が経った頃、祖父が知らないおじさん二人に半ば引きずられるようにして帰って来た。泥酔した祖父を玄関に寝かせた。
「えらいすんません。えらいすんませんよ」
知らないおじさん達に呪文の様に何度も繰り返す祖母を見て、このまま祖父が死んでしまえばいいのにと思った。
阿波踊りの時期に祖母は死んだ。阿波と黄泉は何だか似ていると思った。声がデカく賑やかな場所が好きだった祖母らしい最後だと皆が言った。祖母の葬式にはたくさんの親族が集まった。久しぶりに会った親族同士で笑いながら乱暴に会話し、楽しげな雰囲気を纏っていると思えば、棺桶の窓から祖母の顔を見て泣く。みんなよく笑い、そして泣いた。通夜では祖母の顔の布を取って泣き、湯灌をして泣き、納棺して泣いた。祖母だったものと同じ場所で宴会をして、騒いでいたかと思えば棺桶の窓から顔を覗いて泣いた。静と動、生と死が混在していた。
その光景が私にはあまりに滑稽に思えて、どの感情からくる涙なのか気になった。
祖母の棺に順番に花を入れる時、一人が泣き始めると、伝染したように皆が泣き始めた。
「みんな泣いてるけど、僕泣いてない。何で?」と従姉の子供が父親に聞いた。
「まだ子供やからや」
だとすると、私も子供なのかもしれない。嫌いな祖父が死んだ時は泣き疲れるまで泣いた。肝臓を壊して自分勝手に死んだのだから泣く理由もなかったが、動かない、人間だったものが怖かった。
祖母が死んだ今、私は泣くことができなかった。病院のベッドで喘ぐ祖母の姿は、泥酔している祖父の姿と同じに見えた。あの日、祖母の頭が爆発したように、突発的に一瞬で死ねれば苦しむことはない。祖母は祖母のまま死んでくれた。だから安心した。
私が花を入れる時には、もう置き場もないくらい棺桶は花で埋め尽くされていた。甥は花と一緒に祖母への手紙を入れた。私は花と一緒に少年野球のユニホームを入れた。
キンキンと遠くから鉦鼓の音が聞こえる。リハーサルでもしているのだろうか。軽くて高い音だ。祖母を入れた棺桶が機械的な装置に乗せられて重い音を立てながら扉の奥に消えていった。皆の泣き声が聞こえる。翔ちゃんの父親が一瞬躊躇した後にボタンを押した。機械が動く低い音が聞こえた。
鉦鼓の音が速くなった。皆の泣き声に嗚咽が混じった。人の死はどの瞬間に来るのだろうか。医学的に死と判断された時だろうか。火葬によって肉体が消滅した時だろうか。実は、痴呆が始まった頃にはもう生きてはいなかったのかもしれない。泣くということは悲しいということだから、皆が泣いていた瞬間のそれぞれに死があったのかもしれない。儀式を通して死を細切れにして、それに伴って悲しみも細切れになった。祖母は細切れに死んだ。
昔、祖母が私にかけたように「よう頑張ったな」と言ってみた。少し虚しくなった。今しがた泣いていた母や叔母たちは、すでにケロッとして出席者にお弁当を配っている。港町の女は強いと思った。
遠くで鉦鼓の音が聞こえる。白と青で構成された徳島の空は、今までで一番濃く鮮やかに見えた。
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