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【エッセイ】もう聴くことのできない歌【有吉佐和子文学賞落選作】

もう聴くことのできない歌

 体を動かすことは昔から好きで、暇があれば走り回っている子どもであったが、今も当時とそれほど変わっていない。変わったことと言えば、実家に帰った際に校区内を走りに行くと、当時より腹の出た父が「わしも行く」と言ってついて来るようになったことだろうか。

 父に合わせて走るため汗もかかないが、その分ゆっくりと景色を眺めることができるし、父と話をする事ができる。
 すると「あそこの渡し船、息子継いだらしいぞ」とか「こないだ役場行ったら〇〇おったわ」とか田舎の環境の変化を聞かずとも教えてくれるから、勝手に同窓会をしているような気分になって、時間が少しずつ逆に進み出す。

 中学時代に自転車で通った道を親子で歩くようなペースで走っている。湾内には、たまに潜水艦が顔を出す。中学時代にはそれを見られた日はラッキーと喜び、潜水艦の外に人が出ていれば、じゃがいものように坊主に刈り込んだ友達と、同じような頭をした私とで手を振った。当時の私は悪ぶって、何度もヘルメットをかぶらず自転車で登校したあげく、先生から自転車通学を禁じられたのに、学校にほど近い友達の家の庭に自転車を置かせてもらい、さも歩いて来た雰囲気を出して登校した。そんな事だから、集会の時に決まって歌う校歌などは口パクで、なんとなく聞き流していた。そして卒業式で泣く女子の涙の意味も分からないまま卒業した。
 あの日通った中学校には誰が作ったのかも分からない「ありがとう」を型どった厚紙が窓に貼り付けられており、駐輪場には雑草が自由気ままに生えていた。部活で走り回っていたグラウンドには鉄骨が並べられていて入ることもできなかった。「もったいないな」とつぶやいた父の、もったいないの対象が校舎に対してなのか、グラウンドに対してなのかは分からなかったが、その両方だったのかもしれない。

 そのまま海に沿って走り、水平線を眺めた。遠くに立巌岩が見えたからそこまで走ろうと言った。

 小学校の校歌はうっすら覚えていた。『立巌を見よと逞しく』という歌詞が確かあったはずだ。実際に近くで見てみると、当時思っていたほど大きくは感じなかった。それは、私が大きくなったからなのか、地元以外の場所で立厳岩より大きな建物を見慣れてしまったからなのか。そのことを少しさみしく感じたのは、地元が収縮していくような錯覚を抱いたからで、私が生まれて育ったこの場所が、皆から忘れられてしまうような気がしたからだ。

 「小学校統合したで」と父が言った。続けざまに「もう人おらんもん」と独り言のようにつぶやいた。汗をかきながら、足はなかなか前に出ないが腕だけは大きく振る。そんなぎこちない父の走り方が目についた。

 立巌岩からの帰りがけに小学校によってみると、私が通っていた頃とは少し違って、グラウンドに草が生えているし、当時、何に使うのか結局最後まで分からなかった緑色の大きな的は、割れた部分がきれいに補修され青に塗られていたし、二〇年ほど前に耐震工事を終えた校舎はまだきれいだし、皆が「鏡の森」と呼んでいた山へ続く階段はまだ階段としてある。
 野球の練習でエラーをする。監督が一言「山」と言うとその声をチームの皆でリフレインするから咎められている気になる。そして鏡の森への階段を泣きながら走る。でもその瞬間だけは一人になれて、わざとゆっくり走ったりして、登りきった高い場所から見下ろしたグラウンドと、遠くに見える海を綺麗だと思ったのは脚色された記憶でしかなく、実際に登ればそれほど時間もかからず海も見えない。

 どんどん地元が収縮する。モノの大小も空と地面との高低も、家と学校との距離も。
 当たり前にそこにあったものが、当たり前に無くなってゆく。私が通った保育所も小学校も中学校ももうない。建物だけがある。いつも無くなってから、無くしたものの大切さに気づく。彼らはこのまま朽ちて無くなってしまう。すると彼らの大きさの分だけまたこの街が収縮する。そして誰も思い出すことなく、思い出せる人もいなくなる。
 「もったいないな」さっきの父の言葉が響く。もったいないのではない、悔しいのだ。

 父が喘ぎながら膝に手をついて階段を登ってくる。「ひだ、ひだに悪い、ひだに」父にとってまだ、この階段は長いらしい。「校歌覚えてる?」「覚えてるかあ」そりゃそうだ。そもそも父の母校ではないのだから。当たり前だ。
 父は母校の校歌を覚えているのだろうか。父の田舎は収縮してしまったのだろうか。時代が前に進むほどに、置き去りにされるものがある。私は、母校の校歌をもう思い出すことができない。

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