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【エッセイ】アゴンアレアミミクリイリンクスの話

教育に関わる仕事をしていて、思うことがある。
子供と関わる姿を見てその人のセンスを感じる。
遊んでいるときの子供の表情を見てその人がどれだけ子供の心を掴んでいるのかがわかる。
センスのない人に子供は寄って行かないのだけど、この「センス」というものが厄介で、それを説明せよと言われてもなかなか難しく、というのも「センス」という一つの言葉で表される割に、それが包括する要素があまりにも多いからだ。
子供の表情を読む力、その表情を受けてアプローチを変える柔軟性と引き出しの多さ、共感、時にあえて距離を取ってそっとしておく豪胆さ。それも適切な場面で。
上げればきりがないのだけど、子供の思う「面白さ」には遊びを孕むことが多いし、遊びから多くのものを勝手に学ぶ。
であればこの遊びを想像することができるということが、「センス」の一翼を担っていると言ってもいい。
これは子育て中の人にぜひ読んでいただきたい内容。

遊びは4つの要素に分かれる。
1.アゴン(競争)
2.アレア(運)
3.ミミクリ(模倣)
4.イリンクス(眩暈)

がそれで、例えば

1.かけっこ
2.じゃんけん
3.ままごと
4.ブランコ

などが挙げられる。

遊びはこの組み合わせでできている。
1.アゴン(競争)は力の差が顕著に出るから、2.アレア(運)の要素を入れて「借り物競走にしよう」とか、4.イリンクス(眩暈)の要素を入れてくるくるバットをしてから競争しようとか。

センスのある人はこれを自然に行っている。
遊びは自由に変化させて良い。

最近よく見られるようになったもので、私が吐くほど嫌いなものがあって、それは、みんなで手を繋いでゴールする運動会のかけっこだ。
優劣をつけないように、負けてしまった子が落ち込まないように。
意味がわからない。
1.アゴン(競争)の要素のみに特化したものをさせているのに、その唯一の楽しみの要素である「競争」を無くして、これは何をしているのだ?と思うのである。なら他のものと組み合わせろ。
実際走っている子供はおそらく「何をさせられているのだ?」状態だろう。
「純粋に走っている様子を保護者に……」というのであれば、それは子供のための運動会ではなくて、保護者のための運動会になっているのでやめてしまえば良い。
そもそも保護者からのクレームがあってそういう形にしたのであろうが、これはセンスがないし、これを美談にしている大人もセンスがない。


昨今の様子を見ていると、コートの大きさはこうでなければいけない。ボールはこの大きさのものでないといけない。みたいな「でなければいけない」が蔓延していて、その変化を受け入れたくない人が多い気がする。
自由に変化させれば良い。自分自身の生き方も自由に変化させれば良い。
「でなければいけない」ことなんてないのだから。遊びは自由なのだから。


参考文献
(ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」講談社学術文庫)

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