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【短編小説】布越しの祈り【文藝短編部門落選作】

 トワは、雨の日が好きだった。雨の日は街に人通りが少なくなり、やかましい人の声が聞こえなくなるのが好きだった。地面で爆ぜた水滴が靴にシミを作るのも、水滴が傘の上で結合し、自重に耐えられなくなって滑り落ちる様をビニール傘の内側から見ているのも好きだった。何より雨が上がり、光が差すと、いつもより景色が濃く、それが遠くの方まで続く。視界のはるか先にある山に目をやると、日頃、広葉樹の群がりが薄い膜で覆われ、灰色を纏った色をしている。イメージに近い色を検索すると、「港鼠」という色がヒットした。鼠色に分類されるのかと思った。それがまさに今ベールを剥がし、この姿が本来の自分なのだと、青々とした葉に太陽光線を煌々と反射させ、鼠色から緑に本来の色を取り戻す。山も胸を張って標高が少し高くなる。そんな雨と雨の後の景色が、トワは好きだった。
 それは空気中の塵や埃を雨粒が絡め取って地面に落とし、路肩の吐瀉物と一緒に流し去ってくれるから見られる光景であった。しかしあんなに密集して落ちてくる雨粒にも、空気中を浮遊するウイルスは拭い去ることはできないようで、国も個人もマスクを外すことはできなかった。日本に浮遊するウイルスは海外製のものより撥水がよく効いていて、雨でも晴れでも関係なく浮遊する。なるほど、だから海外では天候に関わらずマスクを着けている者がいなくても、日本ではほぼ全ての人がマスクを着けるのかと思った。
 そのことに辟易し、愚痴を言いつつ生真面目にマスクをつけ続ける同僚が職場にいる中で、トワは未来永劫マスクを着け続ける社会であって欲しいと願った。それは、感染対策の為ではなく、自己の意識の問題であった。以前は平気だったのに、マスクを外し自身の顔面を世に晒すということが、パンツを脱いで尻を晒すほどに恥ずかしく思えるようになっていた。

 会社を出たのは二十時を回っていた。気温は下がり、汗ばむことのない過ごしやすい気温になっている。ちょうどいい。このちょうどよく感じる頻度の少なさを日々、感じる。オフィスの空調はいつも寒いし、電車の空調は暑い。オフィスの電気は明るすぎるくらいに明るいのに手元は暗い。仕事の量はいつも多い。
 このくらいの雨ならいけるかと思い、数歩踏み出したところで思いの外雨足が強いことに気付き、軒下に避難して傘をさした。

 トワの容姿は決して悪くない。まだマスクをつける文化が定着していない頃は、すれ違う男性の十人に一人は、トワの顔と胸に視線を交差させていたし、スカウトをされたことだってある。それは女子プロレスラーにならないかという内容で、「君ならベルトを取れるよ」と光の差した瞳でプレゼンされたが、ベルトを取ることにどんな価値があるのかが分からず断った。最近インスタのおすすめに表示された女子プロレスラーの画像を見ると、まるでアイドルのような人たちばかりで驚いた。これを嗜好にする人は、戦う女性が見たいのか、痛みに悶える美女が見たいのかどちらなのだろうか。もしあの時、彼のプレゼンを呑んでいたら、大衆の、大半が男性の大衆の中で、怒り、呻き、痛みに顔を歪め、ベルトを取って泣かなければいけなかったのかと思うと、脇に嫌な汗が流れた。
 同時に、インスタのおすすめに表示される程度には、その世界への執着が自分にあるとAIに客観的に示されたような気がして吐きそうになった。
 凪のような生活に安心する一方、あったかもしれない未来をみすみす手放したことへの後悔があったのかもしれない。スカウトの男に両腕を広げさせられ、「完全に身長より長いから良い選手になるよ」と言った彼の目尻の皺と口から飛んだ唾を消したのは彼女自身だった。

 駅までの道中、ビニール傘越しに見える滲んだ景色と、雨のせいで靄がかかった景色を見比べると思いの外、似ていた。パタパタと雨が傘に落ちる音を聞き、たまに電線から落ちてくる大きめの水滴が傘に直撃すると嬉しくなる。ボタッと低い音が響く。ビルの側面をはしる割れた樋から激しく落ちる雨水の下に敢えて立つと、傘越しの景色が遮断され、バタバタバタとビニールをトランポリンがわりに跳ね返る水が面白い。その瞬間だけは、樋の中のカビや一緒に落ちてくる泥やゲロのことなど考えることもせず、ただその行為と現象にのみ集中できた。
 雨と戯れる姿を人に見られるとどう思われるかわからない。我に返ったトワは周囲を見渡し、また駅までの道を急いだ。

 以前、「マスクを外せない若者たち」という特集をメディアが報じていた。人に顔を見せることが恥ずかしい。顔を見られながら関わることが落ち着かない。と話す学生に対して、自己肯定感の低下が引き起こす症状だと、専門家風の女性が解説をしていた。当時病気でもないのにマスクを着用する学生を批判的に扱った、問題提起的な内容だった印象がある。しかし今はマスクをしない人が異常者であるように報道される。正しさなどというものは、常に伝える側の意図ひとつでどうにでもなるのだとトワは思った。
 顔を見られたくないという気持ちはトワにもよく分かる。世間がまだマスクを付け出す前、トワの顔から体に移動する男性の目線が不快だった。男性だけではない。女性は同性の体と顔、時に服装をよく観察する。男性よりも気づかれにくく、しかし執拗に観察し、自分自身と比較する。自分の方が優れている部位を探し、見つけられない時は、「性格悪そう」や「遊んでそう」と、誰にでも当てはまる破壊力の高い言葉で自身を守るのだ。男性の性欲も女性の優位性の渇望も、トワは仕方のないことだと諦めていた。
 マスクをつけるようになり、大体の男性、そして女性が顔での優劣をつけづらくなった。目元と髪型で大概の男性はカッコよく見えるし、女性は尚のこと、目元のメイクの如何でいくらでも可愛さを繕える。だからこそ、その反動も大きく、マスクをテコでも外せない状況に陥っている。初見で相手を値踏みするための、顔という評価要素が横並びになった反面、マスクを外すという非日常、その希少性から顔への期待感がより強くなった。そして男女それぞれが、それぞれの作り上げた理想を掲げ、望外に高くなったハードルを越えられない男女の恋が終わってゆく。マスクをつける社会は決してユートピアではない。
 しかし悪いことばかりでもない。トワは、他人からの頼みは基本的に断らない。というより断る勇気がない。マスクを着けていない相手の表情が明確に見えすぎて苦しくなる。今の仕事を始めた頃、課長から残業を頼まれ同意すると、週に三日程は定時で終わらない量の仕事を回されるようになった。
その日はどうしても定時で退社しなければならなかった。トワの大好きなお笑い芸人「和牛」の単独ライブがあった。今ではチケットが取れないことで有名な人気のお笑い芸人。そんな和牛のチケットがたまたま取れたのだ。
課長が革靴の踵をするような歩き方で、トワのデスクに来て残業を依頼した。課長の顔と川西さんの笑顔を天秤にかけた時、川西さんが勝った。完勝だった。まさかお笑いのライブを見に行くなどとは言えないので「すいません今日はどうしても外せない用事が…… 」と断ると、一瞬ほうれい線が濃くなった後に「そうか、わかった、また頼むよ」と言って不自然に引き上げた口角に対して目元の変化はなく、歪な表情をトワの海馬に刻みつけデスクに戻った。
 その後のライブは面白かったものの、意識の隅の方に課長の煩わしい表情が残り、完全には仕事を断ち切ることができなかった。川西さんの「もうええわ」と、トワの胸の内にある言葉がリンクした。
 本質的な解決になっているわけではないが、マスクはそんな煩わしい表情を見なくて済む良いツールになっている。目元だけなら人の感情は、どうとでも都合よく解釈できる。本当の笑顔ではなくとも笑顔風な表情を作ることができるし、相手が無意識に作る不快な表情に意識を囚われる必要もない。そういう点ではマスクは非常に重宝する。

 乗り込んだ電車は席が全て埋まっており、立つ人も散見できた。トワは扉の側に立ち、座席を囲うアルミ製の手すりに軽くもたれかかり、体の前で傘を杖のようにして体重を預けた。
 トワの近くに立つ五十代くらいの女性が眉間に皺を寄せながら、しきりにチラチラと目線を動かしていたので、同じ方向を見ると、ニット帽を被った男性がマスクをせず座っていた。その両サイドに人は座っておらず、埋まっていると思った座席は二人分空いていた。彼の前に立つ人もおらず、その空間はぽっかり穴が空いたようになっている。眉間の女性はその座席に座る彼を恨めしそうに見ていた。
 オフィス街の最寄りにある駅に着くと、案の定乗り込む客が多く、眉間の女性がトワの前に押しやられてやって来た。トワは持っている傘の側面を女性の腰のあたりに当てた。女性は気づかずに立ち続けていた。傘を離すと女性のシャツは色が変わるくらいに濡れていた。次に女性の持つ、安そうな合皮のバッグに傘を引っ付けると、水滴は染み込まずにバッグの表面に付着した。何が混ざったかわからない、清潔かどうかわからない水を滴らせながら、不潔かどうかわからない男性を睨んでいる様子が面白いと思った。眉間の女性はバッグから携帯を取り出す際に、バッグに付着した水滴に気付き、手の広全体で拭い取ってパンツのお尻で拭いた。男性の両隣にはもう人が座っていたけれど、両サイドの二人は、ニット帽の男性と拳ひとつ分ほど隙間を開けて座っていた。電車の揺れで、先端を床につけた傘から水滴が落ちた。

 以前、外出自粛が緩和されてから、彼とラーメン屋に入った。そこは食券制のお店だった。入り口を入った先に食券機があった。トワたちの前の男性はマスクをつけていなかった。男性が食券を買おうとした時、女性の店員が「すいません、マスクをつけていただけますか」と伝えた。男性は「はい、食券買ったら車に取りに行きます」と目元の笑っていない笑顔を貼り付けて返事したが「すぐつけていただかないと……」という店員の言葉に、男性の顔、トワから見て左側の男性の顔に一瞬、筋肉の収縮があった。痙攣と言って良いようなほんの一瞬の収縮。目尻と口角が近づいて皺が寄り、頬骨の辺りの肉が盛り上がる。吊り上げた口角からちらっと犬歯が見えた。男性は何も言わず店を出て、しばらくすると不織布のマスクをつけて戻ってきた。男性が戻ってくるまで、順番を抜かさずに待っていたトワ達に、その男性は「すいません、ありがとうございます」とマスク越しに礼を言って、食券を買った。つけ麺だった。その後、男性は席に案内され、マスクを外して麺を啜り、カウンターに丼を差し出して席を立つまで一言も声を発さず帰って行った。
 テレビでは、「マスクは感染しないためのものではなく、人に感染させないためにつけるのです」と誰かが言っていた。だとすると、店員が話しかけたことによって、男性は声を発したわけであって、店員が話しかけなければ、彼は食事以外に口を開けることが無かったのだから、マスクの着用如何のやり取りのせいで感染のリスクが高まったと考えると、あまりにも皮肉の効いた無駄な、無駄以上に不利益の要素の強い出来事のように感じて、同じことを思っている人がいないか周囲を見渡したが、みんな真面目然として食事以外のタイミングではマスクを着けており、あぁ、なるほどとトワは思った。男性の顔はもう思い出せなかった。
 トワと彼は、差し出されたラーメンを食べた。トワはマスクの下側を少し浮かせて、その隙間から麺を咥え、ゆっくり、舌で口の中へ麺を送っていくようにゆっくり啜った。勢いよくズルズルと啜るとマスクにスープが飛び散り使い物にならなくなる。マスクが汚れると、おのずとマスクを外す瞬間ができる。そうならないためにトワは、マスクの下側をつまんで浮かしたまま咀嚼し、飲み込み、上下の唇を内側に窄め、舌先で唇に付着した油を舐め取り、そして初めてマスクを摘んでいた手を離す。これを何度も繰り返して完食した。彼も同じようにしてラーメンを完食した。

 電車を降りると雨は止んでいた。この時間に開いているのはコンビニくらいだったので、寄り道せず家路についた。傘をサッカーボールのようにポーンポーンとリズムよくトゥキックで蹴りながら歩いた。二十一時目前の住宅地には人通りがほとんどんなく、車の通りもほとんどない。暴漢でも出てくればひとたまりもないなと思ったが、家が密集した場所なので大声を出せば誰かしらが駆けつけるだろうと心配はしなかった。
トワの住むアパートに着くと、201号室に電気がついていた。彼が来ているなとトワは思った。東西に二つある階段の西側の方をのぼると、すぐにトワの住む部屋がある。漆喰で塗り固められた階段を登り、横向きのドアノブを下げるが鍵が閉まっていたので、バッグの中を探っている時にガチャッと重い音がして鍵が開いた。いつも鍵は開けてくれるが、ドアはセルフサービスなので、ドアを開けて部屋に入ると、リビングに戻って行く彼の背中が見えた。トワは部屋に入り「ただいま」とキッチンに立つ彼の目元を見ながら言った。
「おかえり、遅かったね。大丈夫? 」
「大丈夫だけど大丈夫じゃない」
「なにそれ」
 彼の目元は笑っている。目尻のシワがおそらく、それを物語っている。
「カレー食べる? 」
「絶対食べる。もう食べたの? 」
「まだ。待ってた」
 彼がカレーを温め直している間に、トワはシャツを脱ぎキャミソール姿になって目元の化粧を落とした。その後マスクをつけリビングに戻ると、ちょうどカレーライスが机に運ばれているところだった。
 準備ができると二人でいただきますをして食べた。マスクの下側を浮かせてスプーンを捩じ込む。彼も同じ食べ方でカレーを食べた。二人ともマスクを浮かせた隙間から自分の顔が見えてしまわないように、いつも他の人より俯き加減で食べるので、その様子はどこか卑屈で、祈っているようにも見えた。

 トワが小学生の頃、ばあちゃん家に行くと度々、「今日は『ぎょうじゃさん』の日じょ。行ってこいよ」と言われることがあった。当時トワは『ぎょうざさん、ぎょうざさん』と言っていたが、正式名称はいまだに分からない。
「今日はせぶらかすおいやんの家よ。場所わかろ? 」
トワは、せぶらかすおいやんが誰かは分かったが、その家までは知らなかったので、ばあちゃんに聞くと、なんとなくの場所を伝えられ、なんとなく進むとのぼりが立っている。その家が『ぎょうじゃさん』の会場だった。
家の中には地域のじいちゃんばあちゃんと、その孫と思われる顔馴染みの子供が数人いた。時間になると仏壇の前に座ったお坊さんが真言を唱え始める。中盤にいつも
「せんだんまーからせやさんそうかいうんたらたーかーまーのまくさんまんだーばーさらさ」
の件が来て、トワはここのリズムが良いのと、言葉の響きが面白いのが好きだった。隣に正座している知らないばあちゃんは、お坊さんと一緒にお経を唱えている。下手をするとお坊さんよりも大きい声で唱えていた。大人になってから正しい真言を調べてみると
「のうまくさんまんだ ばさらだん せんだん まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん」
と書いていたが、絶対にそうは言っていなかったと記憶を辿り、なかなかいい加減な信仰心だと思う反面、日常に根ざすとなると、あまりに明確すぎる規律は忌諱されるのだろうとトワは思った。
真言が終わると
「なあーむあーみいー、だーあぶーつ」
と独特な抑揚の南無阿弥陀仏を五分ほど繰り返し唱え、参加者一人一人の頭上で、お坊さんにガランガランとうるさい鐘を鳴らしてもらう。トワの隣のばあちゃんは、自分の番が回ってくると「なまんだなまんだなまんだなまんだ」と追い南無阿弥陀仏を唱え、首を垂れていた。
 お祈りが終わるとお菓子をもらって帰る。子供達はこれを目当てに『ぎょうじゃさん』に来ていると言っても過言ではなく、トワの手にもうす塩味のポテトチップスとキャラメルコーンが握られていた。
 ばあちゃんの家に帰ってキャラメルコーンを開けて食べた。口の中でしばらく転がし、唾液で柔らかくなったものを、舌と口蓋で押しつぶして食べるのが、トワは好きだった。キャラメルコーンのキャラメルではないキャラメルの甘さが口に広がるのが嬉しかった。いつも底の方に偉そうに鎮座するピーナッツが煩わしかったので、炬燵机の上にキャラメルコ―ンを綺麗に整列させて置き、袋の底に溜まったピーナッツを袋ごと口に咥え、ガサッとまとめて口に流し込んだ。整列させたキャラメルコーンのそれぞれが湾曲していて、『ぎょうじゃさん』に参加した人たちと同じように祈っているように見えて、一際小さいひとつをトワ自身と見立てた時に、その横にあるひとつが、隣に座っていたばあちゃんの姿と重なった。トワは、ばあちゃんを咀嚼した。

 カレーを食べている間にお湯張りをしておいてよかった。食べ終わる頃に「お湯張りが終了しました」のアナウンスがあり、二人でご馳走様をした後、キッチンで一杯お茶を飲んで、風呂に向かった。彼がついてきたので今日は一緒に入る日かと、思った。
 まず下半分の服と下着を脱いだ。「いつも順番逆じゃない? 」と言って目元で笑う彼に、目元で笑いを返して上半分に取り掛かった。キャミソールを脱ぐ時が一番緊張する。肩紐や首元の布がマスクに引っかかって、マスクが外れてしまわないか細心の注意を払った。
 トワが湯船に浸かり、彼が体を洗う。うすい胸板の下に腹斜筋と腹直筋が浮いている。筋肉の発達によるものなのか、単に痩せていて筋肉が浮き出ているだけなのかは、トワには分からなかったが、今でも草バスケをしている彼の下肢は、ロッククライミングができるほどに起伏入り混じっている。下半身の筋肉量を鑑みると上半身にも常人かそれ以上の筋肉量はあるのだろうと、トワは思った。
「頭おねがい」
 一緒に風呂に入る時はマスクを外せないので、頭は互いに洗い合うことにしている。トワが湯船を出て彼の背に回り、膝立ちになった。彼が天を仰ぐように頭をそらせた。目にかからないように、生え際からシャワーをかける。目を瞑った彼の睫毛が長い。マスクを押し上げる鼻は高いように見える。鼻翼はどうだろう。わからない。シャンプーを手に取り彼の髪で泡立てた。「首取れそう」と言った彼に「もうちょっと」と返し、指先で丁寧に洗った。
 もし彼の首が取れたなら、トワはどちらを愛すればいいのだろう。頭の方なのか、体の方なのか。お互いに顔で選ばないようにと付き合った後もマスクを外さないことを決めた。トワには自信がなかった。仲良くなった人が、マスクを外した途端に去ってしまうのではないかと、常に思う。YouTubeライブで、人気のライバーがマスクを外した途端に視聴者が激減する動画を見た。作り上げた幻想の中で性的に興奮する対象が、自身の好みではないとわかった瞬間、大勢が手の平を返した。それはさながら餌に群がり散ってゆく虫のように見えた。

「顔見せなくても付き合える? 」
 彼の動かない目元に、トワは彼の驚きを感じ取った。
「告白って捉えていいの? 」
 彼の目元だけの顔に笑顔が広がった。

 二人で湯船に浸かる。二人とも同じ方向を見ている。トワが彼の背後で、膝と膝の間で彼を挟む。彼の後頭部と首筋と僧帽筋の上部が見える。
「ねえ、普通逆じゃない? 女性が前じゃない? 」
「いや、これの方が…… 」
彼が体を左右に振って背中をトワに押し付けた。
「背中に胸が当たって良い」
「バカタレかよ」
二人で声を出して笑った。
「後ろから揉めば良いじゃん」
「侘び寂びがない。感覚がはっきりしすぎなんだよ。いや好きだけど、好きだけどそうじゃないんだよな。背中のちょっと鈍い感覚神経で柔らかさと温かさを感じるんが良いのよ。はっきりわかりすぎるのも面白くないのよ」
 彼が何を言っているのかはわからなかったが、必死さは伝わった。そもそもはっきりしない二人なのだ。彼は専らグレーを好む人なのだろう。振り返った彼のマスクが湿気で濡れて、ほんのり顔の輪郭を写していた。トワのマスクもきっと透けている。
 風呂から上がる時は一人ずつ上がる。マスクを付け替えて髪にタオルを巻いて、もういいよをすると彼が上がってくる。彼が上がる前にトワはリビングに戻らなければならない。鬼ごっこをしているような気持ちになることがある。カーペットに座り髪を乾かしていると短パンで上半身裸の彼がリビングに入ってきた。彼が何も言わずトワのドライヤーを取り上げ、後頭部に風を当てた。
「よし」
 トワの体が浮いた。炬燵机で足の甲を打ったけど言わないでおいた。薄く見えた体は力強かった。寝室に担ぎ込まれ、電気を消して、遮光カーテンを閉めた。リビングの光が漏れないように、リビングの電気も消した。でもマスクは外さなかった。真っ暗な中で溶けた。どこに彼がいるのかもわからず、どちらを向いているのかもわからない。彼も同じことを思っているだろう。おでこに彼の息が当たり、臍に指をそわせた。体の内側の圧力が高まった。体内に引き込もうとしているのか体外に排泄しようとしているのかわからない不思議な感覚だった。トワは彼の腰に両足を巻きつけた。そして首に回していた両腕を解いて、彼のマスクを外した。トワ自身のマスクも外して、トワのマスクを彼につけ、彼のつけていたマスクを自分につけた。石鹸の匂いに混じって、彼の少し酸っぱい汗の匂いがした。

 セックスの後はそのまま眠ることが多い。彼はトワの隣で寝息を立てている。敷布団や掛け布団に性液がついているだろうから、明日の仕事は寝具の洗濯からだろう。開けたカーテンから月が見えた。雨は上がっていた。空気中の埃やウイルスを綺麗に洗い流してくれただろうか。元々トワのだった彼のマスクが上側にずれ顎の先端が見えそうになっていたので、整えてやった。目覚まし時計のボタンを押して点灯させると二時だった。トワもこのまま寝ようと思った。夜中に一度彼は起き出すからそれまでに寝ようと思った。いつも四時ごろに彼は一度目を覚ます。そしてトワのマスクを外す。だから彼はトワの顔を知っている。トワは彼の顔をまだ知らない。そして彼はトワにキスをして二度寝をする。そのことをトワは知っている。トワが知っていることを彼はまだ知らない。

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