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「語る」という種族

サンソン・フランソワという稀有なピアニストがいる。
彼の演奏をはじめて聴いた時期を正確には思い出せないのだけれど、10年以上も前のことだったように思う。
それはドビュッシーの「月の光」で、「なにごと?」というのが第一印象だった。
だって、全く「月の光」に聞こえない、というか、フランス音楽の響きにさえ聞こえなかったのだ。
ひとことで言えば、現実感。しっかりと地に足がついたような意志的な一音一音が、まるで宣言しているかのような発音だった。
ドビュッシーの響きの特徴として、浮遊感というのがあると私は思っているので、これは真逆の性質だ。
なぜ?彼はフランス人のはずではないだろうか?「サンソン・フランソワ」などという名前の人物がフランス人以外であるはずがない。
つまり、それまではこのようなドビュッシーを聴いたことがなかったのだ。

当時私にとっての極上のドビュッシーとは、ゾルタン・コチシュの演奏するそれであり、ハンガリー出身のピアニストであり指揮者でもある彼の弾くドビュッシーには、フランスという国の湛える空気の佇まい─水晶のように硬質で透明な、交差こそすれ混ざりあうことのない気配─が完璧に表現されている。
かつて触れていたあの国の空気の肌触りを、コチシュは聴くたびに思い出させる。
そんなわけで、フランソワによるこの「月の光騒動」以降、彼の演奏は特に聴こうとは思わなかった。

ところで、どちらかといえばアナログ気質の私でも、スマートフォン一台あればほとんどの演奏家の目当ての曲を探し当てられる時代になったことには深く感謝している。
それで思うさま複数の演奏家の解釈で好きな曲を聴き比べる、ということを普段からやっているのだが、ある時ショパンのワルツ集やらマズルカ集、ノクターン、舟歌、子守歌、エチュード、つまりショパンといえばこれ、という気分になり、例によって曲名で入力して片っ端から聴いていったことがあった。
どの演奏家のショパンも詩的でロマンティシズムに溢れていて素晴らしかったが、流れた途端動作を止めて聴き入ってしまった演奏があった。
圧倒的な気品。匂い立つような色香に漂う哀愁、身震いするほど甘美な旋律、はっとさせられる色彩感─
改めて演奏者の名前を確かめると、控えめな口髭をたたえた、理知的だけれどやや神経質そうな容姿の写真の下に、サンソン・フランソワとあった。
「あの月の光の人!」と気づいた時の衝撃たるや。

彼の演奏の凄み─分析の濃やかさと、繊細でありながら大胆な表現力─をどう言葉で説明したら良いのか、私には見当もつかない。
ひとつだけ断言できることは、サンソン・フランソワは、紛れもなくストーリー・テラーであるということだ。
彼の演奏の魔力にかかると、あっという間に「向こうの世界」にいざなわれてしまう。ちょうどメリー・ポピンズが魔法を使って、煙突掃除人の旧友バートが描いたタイル画の中に、散歩に連れ出していたふたりの子供をいとも簡単に連れて行ってしまったように。
語りかけられれば、どうしたって耳を貸さずにいられない。
それに、あの卓越したペダリングときたら・・・!
ダンパーペダル(右端)を最小限に控えられており、それは作曲家の意図以上に明らかに彼の指向的要素によって行われていると思うのだが、夢のようなレガートでメロディを歌わせつつ細かい音の粒を際立たせるなど、もうマジックとしか言いようがない響きを生み出している。
大体、ペダルというものは「使う」ことよりも、「使わない」ことの方がはるかに難しいのだ。
ペダルを利かせずに弾くなんて恐ろしいことは、私のような凡人にはとてもできない。

ちなみにゾルタン・コチシュの場合、語るのではなく、そもそもその作曲家が備えている気質や由来する場所(国)の性質といったものをも含めた「気配」を正確な質量で再現してみせるタイプの演奏家で、だからこそ当時、コチシュの方に軍配を上げたのだと思う。
ドビュッシーを聴く時は、あの国やフランス音楽という響きが備えている気配に身を投じたいと思っているからで、とりわけ「月の光」は自分の好みの演奏家かどうかを判断するための踏み絵としての役割りも担っている。いや、いた、と今では思う。
なんて馬鹿げた考えを持っていたのだろう。
フランソワのドビュッシーも、今やすっかり「ヘビロテ・リスト」の仲間入りである。もちろんショパンも、ラヴェルも。

しかし、もしもサンソン・フランソワを人に勧めるなら、やはりショパンを、と言うと思う。
ショパンという作曲家の書いた曲に一貫している美しさは限りなく魔力に近いものがあり、フランソワがショパンを「語る」とその威力が増す。
この世のものとは思えない幻想の世界を彷徨うことになるという一点において、演奏が終わるとどうにも「まやかされていた」という感覚に陥るのだ。
こういうショパンはそんなに身近には転がっていないと思わせてくれるからこそ、一般的にはネガティブな意味合いで使われる言葉でも、この場合はあえて使いたい。
まやかされたい方は、ぜひ。

余談だけれど、万が一にもおかしなことを書いてしまわないようにとざっと調べてみたところ、Wikipediaの名前の表記が「コチシュ・ゾルターン」となっていてぎょっとした。
CDのジャケットにはちゃんと「Zoltan Kocsis」と表記されているのに。
表記の相違はもちろんなのだが、私としてはむしろ「ゾルタン」の発音の方が気になる。「ゾルターン」が正式なのだろうか。
どなたかご存じの方、教えて下さい。


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