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ランドセルの葛藤

最近youtubeで流れてくるCMですごく印象的なものがあった。

それはランドセルメーカー「セイバン」のもので、5分くらいあるロングタイプのCM。

パンの仕込み作業中にyoutubeを流しているので、ロングタイプだろうが何だろうが手が離せなくてCMのスキップができなくてぜんぶ視聴することになる。
ランドセルのCMが新小学1年生の親である私のもとにちゃんと流れてくることにまず驚きである。こわっ。けど今日はそこじゃなく。

新小学1年生の子どもたちが、色とりどりのランドセルがたくさん並べられた部屋に入ってきて、嬉しそうにランドセルを選び始める。

親たちは、その様子を別の部屋でモニター越しに見ている。

わが子が選んだランドセルは、納得のものだったり、意外な選択だったりだったりなのだけど、じつは今 子どもたちに選んでもらったものは「お父さんとお母さんが選んでほしいと思っていそうなランドセル」であったことが明かされる。

そしてスタッフさんが「じゃあ次は、自分がほんとうに好きなランドセルを選んでくださーい!」と告げる。瞬間、さっきまでよりもずっと嬉しそうに弾ける笑顔で、これがいい!!と駆け出す子どもたち。

この一連の流れの中の、親の表情と、子どもたちの表情が、もうなんとも言えない気持ちにさせられて、めちゃくちゃよう出来たCMやな!!と感心させられるのですが、私が一番グッときてなぜか泣いてまうのが、ほんとうにすきなランドセルを選ぶときの子供たちの表情。

以前パン学校の東洋思想の講義で先生が言っていた。

誰でもみんな、個人差はあるけど6歳くらいまでは、自分だけの世界観を持っていて、自分の好きなものを知っていて、そこにまっすぐに没頭することができるんだと。

だけど成長していくにつれて、心も成長し、周り(特に親)の気持ちを察するようになる。「こうしたい」よりも「こうするべき」「こうするのが喜ばれそう」が上回ることが増えてくる。

学校教育も、最近は個性を尊重しようという風潮にはなっているけど、それでも飛びぬけた個性を出すのには少し勇気がいるだろうし、「みんながこうだから」「これが流行っているから」と選択することも多くなる。

社会に出るとますます、飛びぬけた個性は押さえて、欠けた部分はなるべく隠すようになる、協調性が大事だよねと。

家族ができれば役割と責任感はより強くなり、自分の純粋な「こうしたい」という気持ちだけで選択することはなくなっていく。

気が付けば、自分のことが分からなくなっている。
ほんとうはどうしたい?
ほんとうは何が好きだった?
私の世界観って???

そこに気づくことができればまだましで、自分のことを見失っていることにも気づけていない人も多いんだと思う。私がそうだった。

そうして「こうしたほうがいい」は子どもに伝わってしまう。

口では「好きにしたらいいよ」と言っていても、「好きなように生きてほしい」と本気で思っているつもりでも、他の子たちに変に思われていないか、仲間外れになっていないか気にしているし、わが子がみんなに馴染んでいると安心する。

それも子どものしあわせを願ってこそなんだけど、あぁ難しい。

だって、もし息子がピンクのランドセルを選んだら、「おぉお!?」ってなってしまう。それとなく、他のものも見てみたらどう~?って言ってしまう。
うちの子は今、空前のカブトムシブームなので、迷いなく「黒!!」だったんですが、そこにホッとしてる自分がいる。

親として、そういう部分があるのは、仕方ない。ちゃんと自覚はしつつ、子どもの「こうしたい」を受け入れる。「それいいね!」と言ってあげる。

そのための一番の近道はきっと、親である自分自身が、「こうしたい!」「これが好き!」に従って生きることだろうなぁと思う。

ちなみに私はエスニックな布や服がじつは大好きで、でも普段は動きやすさや快適性を重視して封印している。
たまに出かけるときに思い切って派手~なインド製ワンピースを着ると、4歳と6歳の子は「ママめっちゃかわいい~」と言ってくれる。
だけど13歳の娘には、「エッそんな派手な服着るの!?」と嫌がられ、参観に着ていこうかなと言えば全力拒否される(笑)お年頃です。

でも、私が私の「こうしたい!」を尊重するのが私の教育方針ということで。
まじめに見せつつ「こうあるべき」「こうしないといけない」にたまにうおーっと反発している私の姿が、子どもたちが大人になったときにもしかしたら救いになるかもしれない。知らんけど。


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