帰省して反省してさっさと帰ろう
帰省の目的は紛れもない、家族と会うため。
この正月四日間は本当に有意義だった。
脳みそ空っぽにしてたらふく飯をかきこんでしょうもないことで笑って、実りのない話を永遠と繰り広げる。なんぼ腹の割った友人でさえこういうコミュニケーションはできない。全てを理解して期待も落胆もしない相手だからこそできるというわけだ。とてもありがたい貴重な時間だ。
親は確実に老いていた。同じ話をされることは数え切れないくらいあったし、見た目ももちろんだし、食の細さとか、物忘れとか、なんか節々から老いを痛感せざるを得なかった。間違いなく、ここ数年でどっとギアが上がってきていると思った。
お墓の話をされた。老後の話をされた。生活を少し切り詰めている様子も伺えた。これらは全てマイナスな話だった。そして全ては我々子供達に迷惑をかけまいという考えのもとの話だった。親はいつまでも親だった。自分より子供のことなんだ。僕の親はどちらも公務員だし、というのは関係ないかもしれないが、現実主義的で、勝算のない賭けはしないというか、将来自分たちはこれくらいお金がかかるから子供達よよろしくねというような感覚はゼロのようだ。というよりもゼロにせざるを得ない生き方を僕ら子供陣がしてしまっているのだ。将来自分たちにかかるであろう費用を自分たちで計画的に蓄えている。少ない中で蓄える。それによって今、切り詰める必要がある。そういう状況に僕は親を置かせてしまっている。
お墓は無くしてもいいからね、
施設に入ることになるだろうけど準備はしてるからね、
車は維持費が大きいから一台にするね、
高いから向こうの店で買うね、
それらの、なんというか無意識下で自分らを犠牲にしているようなことばを聞くたびに、鼓動が一瞬ドッと早くなる。
そんなこと言わないで、心配しなくていいんだよ、
と咄嗟に言うことができないのが虚しくて悔しくて悲しかった。
言ったところで僕には信用も経済力もないのだから。砂に文字を書くようなものだ。
今しか会えないのに、今しか今を生きれないのに、未来を危ぶんで今を疎かにさせてしまうなんて。
僕は一体なんのために生まれてきたのだろう。
僕は、親にとって何になるのだろう。
何か、経済力じゃなくていいから何か、結果を出さなければならないと、強く、強く思う。
説得力になるような経済力がなくたって、
大丈夫だよ
と言って1ミリでも信用してもらえるような人間にならなくてはいけない。
自分なりに頑張ってるつもりでいたって、結果がなければ無いも同然なのだから。
ああこうやって毎年正月に親を見て猛省しどんよりと東京にもどる。繰り返している。情けないほどに。けれどどんよりしなくなったら終いだろう。
毎年恒例の猛省帰省も明日で終了だ。
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