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カメラを趣味にしている人、みんな幸せにできる説

ひっさびさに個人の方でコラム書きます。いつもは在宅ワークスの方で書いてたりしますが。

さて、今日は仕事で半日位自社製品広報のため自社の社員から選りすぐりのカメラマンと選りすぐりのモデルを選別し写真を撮りまくる日であった。

僕はそもそも必要なかったのだが、それ関係にすこしだけ足を突っ込んでいるので楽しそうなので一緒に参加させてもらった。

こういう感じに撮りたいよねぇーだなんて色々試行錯誤しながら使うのは3,4枚だと思われるが様々なシチュエーションや角度でとったり、光の当てかたをかえたりして写真をとっていった。

もちろん私はそれを見ながらすげー!とかプロっぽい!とか感動を口にすること以外できない無力な26歳でいるしかなかった。

私はモデル役ではなかったが、これもってみて!とか言われて写真をとってもらったりした。

ギター(バカ高いやつ)を弾いている写真をとってもらったのだが、思いの外きれいに撮られていてびびった。

あれ、ぼくこんな髪の毛つやつやだっけ?という感動を覚えた。(ちなみにギター関係の仕事はしていないです。)

とまぁカメラを趣味にしていらっしゃる方々を半日見させてもらって感じたことがある。

あれ?カメラの趣味ってみんな幸せになるのでは??

カメラって自分以外を主役にして、その主役がいかに輝くかを考えながら色々試行錯誤してシャッターを切っているわけだが、ここで前にも話した内容とリンクさせて執筆させてもらいたい。

自分は自分の小説のなかでは主人公だが、他人は他人の小説の主人公なのだ。

もっというと自分の人生において脇役なあいつでも、あいつの小説のなかでは自分は脇役なのだ。

しかし、カメラマンというのは自分が好きで写真をとっていて自分は主人公としての役割を全うしているにも関わらず他を主役にするというパラドックスのようなそうでないような特別な存在な気がする。

例えば我々趣味で音楽を作ってる人間は、あくまでも主役は自分である。

自分が作った音楽を誰かが聴いてくれたうえで、好きになってもらってはじめて他人に関与する。

しかしその場合でも主役は作者だ。

もっというと、バンドで考えても大抵のギタリストやドラマー、ベーシストは自分がいかにかっこいいフレーズをぶちこめるか?を考えると思う。

自分でもそうする。

しかし、曲の主役というのは主旋律であり、それをいかに良く魅せるか?が他の楽器の役割となるためそれを忘れると曲として崩壊する。

もちろん例外はあるが目立つところ、そうでないところ、その場の主役はだれか?は常に考える必要がある。

これを誤ると全体がぼやけてしまう。

これは曲だけではないとおもう。

日常会話でもそうだ。

日常会話で誰かが話している最中、まだ話し終わってないのにいきなり話をし始めたやつがいる輪は端からみると『なんのはなししてるんだ??』とぼやけてしまう。

楽曲とリンクさせるのは無理があるが、写真も曲も会話も主役と名脇役がいてはじめていい作品になる。

あと余談だけど、コードにあわせてメロディーつくると結構メロディーがぼやけてしまうことがまあ多いと思う。もちろん自分の経験談なので他の人は違うかもしれないが。。

これは、よくよく考えるとこの話と同じで曲の主役はメロディーなので本来メロディーに合わせたコード進行を考えるべきなんだな!とこの間感じた。

ともあれ、カメラは撮られた側は主役となり嬉しいし、撮っている側も好きで撮っている素晴らしすぎる趣味ではないか??と思った。

のと、僕もカメラはじめてみたいなと感じた。

何かを撮って、被写体がどうしたら一番輝くか考えている彼らを見て私もそんな風に誰かを輝かせる行為を行いたいなぁと思ったのであった。

おしまい!

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