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村上春樹 【かえるくん、東京を救う】 感想と考察

短編集『神の子どもたちはみな踊る』の中で、村上春樹は一貫して「現象は人々の意識が起こしていること」を示唆しています。その視点からじゃないと、これら物語はシュールな不思議話でおわってしまうのです。

「みみずくん=巨大虫」は、東京という土地の地下、つまり集合意識の暗部に蠢く人々の意識であり、作品内では「肥大化した破滅願望」にまで育っています。

「腹を立てると地震を起こす」

人々の意識(思考や感情)は、物理的な電磁エネルギーを放出しています。
みみずくんは「ワルモノ」ではありません。彼は物理的には「中央構造線」として、人間に率直なフィードバックを返しているだけ。

普段はおとなしく眠っており、問題があっても小出しの災害で済ませるが、片桐のように抑圧癖を拗らせると大変なことになる。

つまり、片桐や東京の人々の溜まりに溜まった鬱憤こそが「大災害=暴走みみずくん」の本体です。

かえるくんはそれを「憎しみになった」と表現します。放出されない感情はやがて憎しみになり、心の奥深く=地下から存在をアピールするのです。

かえるくんは片桐を褒めます。

誰もやりたがらない仕事を地道に続けてきた、あなたは偉い。なのにロクに出世していない、あの上司の目は節穴だ。親代わりに身を削って育てた弟妹たちも1mmの感謝もしていない恩知らずだ。しかし、ボクだけはあなたを心から尊敬し信用します。

かえるくん「本心:望み/良心/正義・平和の象徴」
みみずくん「本心:不満/暴力/テロ・災害の象徴」

その両者が戦い、葛藤にもつれこむ。

🐸「戦いはボクがします。片桐さんには真っすぐな勇気を分けてほしい、お前は勝てる、正しい、大丈夫だよと言って欲しいのです」ともちかけます。

まず人間側が信じてくれないと、かえるくんは力を発揮できません。望みなど叶わないとイジケテ拗ねていては、永遠に望みは叶えられないのです。

かえるくんは自らの存在証明のために、片桐が取り立てに苦労しているヤクザの事務所へ向かい、何らかの精神攻撃を仕掛けます(詳細はわかりません)

7億にもおよぶ莫大な借金は即支払われ、ヤクザは「2度と🐸を送りつけないで欲しい」と伝言を残します。彼らは🐸を受け入れられませんでした。

🐸は借金の支払いという結果をもって、自分が片桐の妄想ではなく、この世に実在するものだと念押しする。

片桐は「なぜ、自分のようなウダツのあがらぬ、平凡で腐った人間を🪱退治に選ぶのか?」と疑問を口にします。片桐の自己評価はやたらと詳細です。

平凡以下、頭は禿げかけ、お腹がでている、先月40歳になった(24歳から16年間勤めている)、扁平足、糖尿の気配、最後に女と寝たのは3ヶ月前でしかも風俗嬢、誰からも尊敬されず、プライベートでも友達もいない、口ベタで人見知り、運動神経ゼロ、音痴、ちび、包茎、近眼に乱視、ただ起きて寝て飯を食って糞をして寝るだけ、生きている理由もわからない
作品中一番長い片桐のセリフ

🐸「そんな人じゃなきゃ東京は救えず、そんな人のために救うのです」

🪱に「負のエネルギー」を注ぎ込んでいるのは片桐(または片桐のような人生に絶望している人々)なのだから、ある意味では当たり前ともいえますが、重要なのは片桐が🐸という存在を受け入れられることです。

ヤクザは🐸を拒絶したので🪱退治できません。必要なのは腕っぷしや経済力ではなく、器の大きさ=心の柔軟さなのです。

そして片桐の仕事は「銀行の借金の取り立て屋」つまり「エネルギー管理とエネルギーの回収」です。

🪱という「肥大した負のエネルギーの解消」は「借金の取り立て」と本質的に近いのかもしれません。

🪱は「銀行の地下」「ボイラー室のさらに地下深く」にいます。

銀行にボイラー室は不要ですので「怒りが沸騰している場所よりも奥=潜在意識」というメタファーですね。

作戦当日、物語は急展開を見せます

片桐は外回りから銀行へもどるなか、ヤクザの下っ端に肩を撃たれます。

ここで片桐は「真の恐怖とは人間が自らの想像力に対して抱く恐怖」だという🐸の言葉を思い出しつつ「俺は死にそうだ」ではなく「俺は死のうとしているのだ」と思います。

ふつうに考えるとおかしい言い回しです。つまり、片桐は目の前のヤクザが「自分の想像の産物である」と認識しているのです。

片桐は「迷うことなく想像力をOFFにして」意識を失う。1度目の死です。

気がついた時には病院でした。

「窓のない病室」なので昼か夜かわかりません。「奇妙な服」をきており「服の下は裸」
しかも身体の感覚がなく腕も動かせない。

つまり、片桐は「精神病院で拘束具をつけられている状態」なのです。

「あいつらは俺を殺そうとしやがった」
片桐は今更ながらドキドキしてきます。

気を失う前には「俺は死のうとしている」と思っていたし、普段の取り立てでヤクザに殺されかかることは何度もあったことです。

つまり、片桐に「死への恐怖心」「生きたいとおもう気持ち」が復活しているのです。

片桐は「銃撃の傷は大丈夫なのか」と看護婦に問いますが、看護師は首を傾げます。外傷などなく、片桐が歌舞伎町の路上で勝手に昏倒して、昨日の夕方から寝ていたのだと説明しました。

🐸は作戦内容を「それは聞かないほうがいい」とあえて伏せていました。つまり事前に「象徴的な死」を体験させ、より深い深層心理「みみずくんの領域」に引き込む必要があったのでしょう。

その夜、病室に🐸が現れます。

片桐は戦いに参加できなかったことを謝りますが、覚えていないだけで確かに参戦して🐸を全力で助けたのだといいます。

🐸「すべての激しい戦いは想像力のなかで行われました」

夢の中で、片桐は発電機をつかい、一生懸命「ひかり」を注ぎこんだそうです。

🪱は🐸に巻きつき「恐怖汁」を吐きかけるが、片桐は逃げずに踏ん張ることに成功しました。

🐸「ぼくは🪱をバラバラにしてやりました」

散々押し殺され、無自覚に死を願うほど肥大しきったストレス=巨大虫=🪱に勇気をもって光をあてることで、心の闇は認識され、瓦解しました。

感情は抑え込んだり誤魔化したりせず、まず「ありのままに認めて」あげなくてはならないのです。

新宿の地震は起きませんでした。

病室にて🐸は語る。人間は自由意志をもつ。その自由意志は時に人を滅亡にさえ導くが、人間とはそれほどまでの凄まじいパワーを神に与えられた、尊い存在なのだと。

🐸は🪱と引き分けになったという。つまり彼らは表裏一体の存在ということですね。両者は互いにバランスをとるべきもので、退治=消滅はできないのです。

かえるくん「本心:望み/良心/正義・平和の象徴」
みみずくん「本心:不満/暴力/テロ・災害の象徴」

朦朧とした意識の中、かえるくんは語ります。

🐸「ぼくは純粋なかえるくんですが、それと同時に非かえるくんの世界を表象するものでもあるんです」

かえるくんは想念領域の存在ですが、非かえるくん=物質世界の象徴でもあるといいます。冒頭で述べた『人の意識こそが物理現象を引き起こしている』を示唆しているんですね。

夢は現実をつくり、現実は夢に作用する。「想念」と「物質」は明確に切り離して考えるべきではないのです。

🐸「目に見えるものが本当のものとはかぎりません。ぼくの敵はぼく自身の中のぼくでもあります。ぼく自身の中には非ぼくがいます」

サリン事件を起こした某宗教団体は、己の信じる教義・正義のためにテロを起こしました。

「本心:望み/良心/正義・平和の象徴」である🐸も、方向性を間違い拗らせれば悪に転じてしまう存在なのです。

「野菜を茹でる感覚でヤクザを脅す、ぼくの存在を否定するものは叩きのめしてやります、恩知らずな弟妹たちをあなたの代わりに殴ってやりたい」
🐸の発言には所々不穏な陰がありました

🐸「機関車がきました」

作品中「機関車」という単語は3回出てきます。1回目は片桐が「ぼくが怖気付いて🪱退治から逃げたらどうなる?」と尋ねた際です。

🐸「ぼくが一人であいつに勝てる確率は、アンナ・カレーニナが驀進してくる機関車に勝てる確率より、少しましな程度でしょう。

この時点では、機関車は🪱を表していました。
「圧倒的な力」「避けられぬ運命」です。

しかし、既に🪱は瓦解しています。
ここでいう機関車は後者の「避けられぬ運命」を示しています。

🐸は混濁の中へ沈んでいく。元いた場所へ、物質世界の裏側へ。

眠りについた🐸が不自然に揺れたかと思うと、全身にコブが浮かび弾ける。その穴から、悪臭を放ちながら「大量の虫」が這い出てきます。

「🐸の中の虫=正義の中に潜む暴力性」が、🐸というアイデンティティを失って噴き出したのです。

虫たちは蠢きながら病室中に広がり、蛍光灯を覆い、火災探知機にもぐりこみ、スタンドの明かりまで覆い、徹底的に「光」を奪っていきます。

みみずくんもかえるくんも崩壊し、光は失われた。
そこにあるのは暗闇と片桐、そして虫だけです。

虫たちは片桐の全身にむらがり、口をこじあけ体内へと侵入します。

🪱退治は光をあて、バラバラにするだけでは不十分なのです。

🪱の中に凝縮していた虫、🐸の中に隠されていた虫。虫=心は「自分たちを生み出しておきながら受け入れない人間」へと戻らねばなりません。

それこそ🐸が伝えなかった「言わぬが華」作戦の終着点なのです。

片桐は「絶望の叫び」をあげる。
まるで赤子の産声のように。2度目の死。

「片桐さん」

看護師に声をかけられ、病室に明かりがつく。片桐は目を覚まします。虫はどこにもいません。

「また悪い夢をみていたのね、かわいそうに」看護婦が慣れた様子で手早く注射を打ちました(鎮静剤のようなものか)

ふつう、外傷もなく「街中で昏倒しただけの人」が多少うなされていたからといって、問答無用で注射を打ってくる看護師などいません。やはり片桐は長いこと病院にいるようです。老人である可能性もあります。

「目に見えるものがほんとうのものとは限らない」
「とくに夢の場合はね」

夢の記憶は通常意識で理解可能なように、本人にとって最もわかりやすい、受け入れやすい形に「変換されている」といいます。

かえるくん、みみずくん、虫。
それらはみな「片桐の一部」でもありました。

目に見えないところで、誰もやりたがらない仕事を引き受け、矢面にたち、人知れず世界を救っているヒーロー。誰からも褒められない、誰も知らない地下世界のヒーロー。

それはかえるくんであり、片桐でした。

片桐は東京が救われる代わりに🐸が失われたこと、混濁の中から2度と戻ってこないことを悲しみます。

「片桐さんはかえるくんのことが好きだったのね」

看護師は荒唐無稽な片桐の発言を否定しません。もしかすると、それは看護師ではなく「介護士」なのかもしれません。
片桐の意識は注射のせいか点滴のせいか、混濁していきます。

「機関車」「誰よりも」

片桐は《自分の中のかえるくん》を愛しく思うことで、やっと自分を好きになれました。

かつて片桐が「自分がいかに無価値か」を語ったとき「チビ短足非モテ」など、本人と無関係な尺度ばかり持ち出しては卑屈になっていました。

しかし、かえるくんを思う気持ちは片桐だけのものです。やっと片桐は「他人目線」から解放され、自分の気持ちが出せるようになりました。

最後、「誰よりも」のセリフだけならシンプルなのですが、意味深に「機関車」が挿入されます。

片桐は「夢のない静かな眠り=3度目の死」におちる寸前、機関車を認識しています。

機関車=避けられぬ運命

みみずくんの虫が解放→みみずくん崩壊
かえるくん崩壊→かえるくんの虫が解放
片桐と虫が融合→片桐が崩壊→

片桐もまた象徴存在です。それは最終的に「読者」へと機関車で帰還しなくてはなりません。

まとめ

1度目の死、ヤクザに撃たれたときは片桐は鬱状態で死を恐れず、痛覚もありませんでした。

2度目の死、虫の帰還時には恐怖と絶望で叫びました。

そして3度目の死の間際には「かえるくんを誰よりも好きだった」という愛と切なさを感じています。

虫=抑圧された心を受け入れたからこそ、片桐は恐れたり、誰かを愛する心、生きる感覚を取り戻せたのです。

片桐は痛みも感覚も鈍化しつつ、しかしギリギリのところでは良心をなくしていない、現代社会をいきる人々の象徴です。

私たちは自らの心の内に「みみずくん」を見出し直視できるでしょうか?

皆から無視され「暴れる虫たち」を受け入れ、地震を起こさず自身に立ち返ったとき、

仲良く笑うかえるくん、みみずくん、そして片桐に逢えるかもしれません。

🐸 END 🪱

余談ですが、当作品に強い影響を受けたアニメ監督 幾原邦彦さんは、「少女革命ウテナ」で「自らの意識が世界をかえる」ことを表現し、続く作品「輪るピングドラム」ではダイレクトに「かえるくん、東京を救う」を登場させています(宮沢賢治とも織り交ぜつつ)

ピングドラムは難解といわれていますが「意識こそが物質/現象を創造している」という視点で見れば、シンプルに紐解けるかもしれません。
短編集『神の子どもたちはみな踊る』は全編を通して「1995年の2月」つまり「阪神・淡路大震災」と「地下鉄サリン事件」の間の月が舞台設定になっています。

かえるくんと片桐の奮闘により「東京直下型地震」は回避されましたが、現実では片桐のような人が足りなかったがために、別の災害(サリン事件)として噴出してしまったことを示唆しているのかもしれません。

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