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石仏

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石仏について、書きます。
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#信仰

石仏の話 

手を頬にあてた仏は、思惟観音と言われるのが基本。 だいたいは右手を頬にあてるけれど、まれには、左手をあてているものもあるようだ。 また、観音と呼ばれず、「歯痛地蔵」と呼ばれている場合もある。 仏典などあまり読む機会もなかった庶民にとっては、石で彫られたものは、全て地蔵様となったのかもしれない。 ただ、それは、それでいいと思う。 たいせつなことは、拝む対象があること。 あまり信仰に理論付けを持ち込むべきとは思わない。

石仏の話(37)うつむく石仏

うつむいて考えているような姿の石仏がある。 苦しむ人間の救済を考えているのだろうか。 人は苦難から脱出するために祈る。 その対象は神であれ仏であれ、目的は苦難から脱出することにある。 自分では脱出できないから、超自然的な神や仏に祈る。 それが、宗教とか信仰の原点とも言える。 ただ、「祈り方」とか「祈る対象」について、他人に難論をしかける人々がいる。 「そんな祈り方は不真面目だ」 「祈る対象が間違っている」 しかし、真面目に祈っている人の気持を、理解できない神仏などはいない。

石仏の話(24)洞窟に彫った仏

石仏の範囲におさまるかどうかは、厳密を旨とする人には申し訳ないけれど、洞窟の壁に彫った仏がある。 おそらく、仏教渡来以降、主に修行僧などが関係して、彫ったのだと思う。 経本を読むのも修行、座禅を組むのも修行、仏を彫るのも修行と考えれば、「偶像崇拝」などと非難する必要もない。 大切なことは、人が一心に懸命に仏の像を壁面に彫ったこと。 そして、その思いを感じること。

石仏の話(6)将軍地蔵

将軍地蔵は鎌倉期に武士たちの戦勝祈願から造られたと言う説もあるけれど、果たしてどうだろうか。 そもそも人は、他者の無残な死体や負傷した姿を欲して地蔵に願をかけるのだろうか。 地蔵が将軍となって、他者からの悪意の攻撃を、人々の争いを、止めてもらいたいという気持から造られたと信じたい。 また勝敗の結果に関わらず、戦争に関わった人々の心を、癒して欲しいとの気持もあったのだと思う。 何しろ、戦争は地獄。 地獄から苦しむ衆生を救うのは、まず地蔵菩薩。 地蔵菩薩に相手を害して欲しい、痛め

石仏の話(4)文化財

本来、人々に拝まれるべき仏像が、文化財指定を受け、特別に造られた保存用の建物の中に収納される、あるいは人の息がかからないようにガラスケースに収納されることが多い。 文化財保護法により、単なる優れた彫刻として扱われ、人に見せることよりも、保存の方に重きがおかれる。 そうなると、信仰とは別次元の話が展開を始める。 そして入寺料の他にも拝観料を取る場合が多くなる。 保存にかかるコストを考えれば、ある程度は致し方ないかもしれない。 ただ、簡単には拝めない仏像は、少々冷たさを感じる。

石仏の話(3)不格好な石仏

道端に立つ石仏の中には、長い間の風雨などの影響もあり、形が崩れているものがある。 また、元々が技術の高い有名仏師などにより作られていないこともあり、少々イビツな仏もある。 ただ、かえってそんな「不格好な仏様」のほうが、親しみがわく。 何しろ、気軽に話しかけられるような気がする。 有名大寺に収納された絢爛豪華な仏様や、数十年に一度しか見られない秘仏を否定するわけではないけれど、「人の笑顔を誘う、人を癒やす仏」であって、いつでも見られるし、仏としてのありがたさは何も変わら

石仏の話 (2)石仏と信仰

石仏に関心がない人にとっては、石仏はただの石でしかない。 そうかといって、蹴飛ばして歩く人は見たことがない。 おそらく「蹴飛ばせない何か」があるのだと思う。 たとえ、その人自身が石仏に対して何とも思っていなくても、他の人が寄せてきた思いが込められてるのではないか、それがどれほどの時間、どれほどの人数と思いであるのかはわからないけれど。 それを感じてしまうと、なかなか蹴飛ばせないのではないか。 偶像崇拝と言う人もあるけれど、それは少し違う。 信仰について、言葉で表す、文字で表す