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石仏の話 (2)石仏と信仰

石仏に関心がない人にとっては、石仏はただの石でしかない。
そうかといって、蹴飛ばして歩く人は見たことがない。
おそらく「蹴飛ばせない何か」があるのだと思う。
たとえ、その人自身が石仏に対して何とも思っていなくても、他の人が寄せてきた思いが込められてるのではないか、それがどれほどの時間、どれほどの人数と思いであるのかはわからないけれど。
それを感じてしまうと、なかなか蹴飛ばせないのではないか。
偶像崇拝と言う人もあるけれど、それは少し違う。
信仰について、言葉で表す、文字で表す、絵画で表す、造作で表す、様々な事例があってかまわない。

言葉は、その言葉がわからない人(外国人含めて)では理解できないし、文字も理解できなければ伝わらない。
絵画や造作は言葉がわからなくても、目と心で感じ、理解できるのだから。

大切なことは、信仰であって、信仰の表し方ではない。

拝むだけではなく、供物やお布施の多寡で、信仰の多寡を「判定する」寺院が多いけれど、そういうところの僧侶はえてして、石仏には目もくれない。
何ら、自らの利益にならないからなのだろうか。

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