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仏の教えは誰のためのものなのか。 しっかりと経典を勉強した僧侶でなければ、語ってはいけないのか。 特に権威主義に陥りやすい人が僧侶になった場合、 「僧侶でもない素人が、仏の話などするな」と、怖い顔で脅してくる場合がある。 そんな怖い僧侶に頭を下げるよりは、道端の石仏を拝むほうが、よほど救われる気持になる。 偉くて怖い僧侶にとっては、そんなことは眼中にないのかもしれないけれど。
神や仏を何により表すのか、あるいは何で示すのか。 言葉などの音声。 経文などの文字。 寺院装飾、絵画あるいは彫刻など。 奇跡というものもあるかもしれないけれど、そんなに頻繁に発生するものではない。 偶像崇拝を認めない宗教は、言葉による説法が中心だった。 聖書などを文字化することについても、当初は異論が続出したとか。 ただし、人間の記憶力には限りがあるし、結局は文書化の方法を採用した。 その結果として、他部族、そして他民族への布教が可能となった。 しかし、他民族への布教が可
古戦場に石仏がたてられていることが多い。 あるいは石仏がたてられている理由を聞いて、そこが古戦場であることを知る場合もある。 理由はともかく、人と人が殺し合って、痛みと苦しみと血にまみれた土地。 せめて、朽ち果てない石仏をたて、敵味方無く供養をしたのだと思う。 人の世は、日本に限らず、血と苦しみと涙の歴史。 この石仏が無ければ、どれほどの魂が、血と苦しみと涙の中に、居続けるのだろうか。 何も言わない石仏の周囲には、計り知れない魂が取り巻いている。
硬い石で彫られた石仏でさえ、長年の経過で劣化する。 まして、生身の人間の劣化などは、仕方がない。 「あの人は今」シリーズなどで、若い時の美しい顔が、年月を経て「劣化」などと批判したり、嘲笑のネタにするタレントもあるとか。 筆者から言わせれば、そんなことをするタレントの心のほうが、劣化ではなく「劣悪」と思う。 特に他人を嘲笑することを好む人は、好きになれない。
数多くの石仏が並んでいる状態で、どういうわけか、その中の一体に目が吸い寄せられることがある。 特に、現世で自分がその石仏に関係したことなどはなく、そうなると前世なのかとも考えるけれど、もともと、そんなことは釈然としない話である。 また、石仏に限らず、過去の歴史本などを読む場合で、興味がある時代と、まったくない時代がある。 そして、それは日本史に限らない。 理由がなく、惹かれてしまう石仏や、時代。 もしかして、何らかの縁があるのかもしれない。 それを知りたくて、その
古くからの由緒を持つ石仏、誰が建てたのか不明な石仏、新しい石仏、様々な石仏があるけれど、それを見る人の中には、古くからの由緒を持つ石仏が価値が高いとする人がいる。 理由としては、歴史上の偉人が拝んだとか、有名な仏師が彫ったとかなどである。 中には、有名な僧侶でも、石仏に優劣をつける場合もあるとか。 仏としては、どれも仏。 人間に優劣をつけられるような対象ではない。 むしろ、仏に優劣をつけるような僧侶や人間のほうが、仏の教えを理解していないのではないだろうか。
奈良町を歩いていると、元興寺がある。 元興寺と言えば、日本最古の歴史を誇る仏教寺院飛鳥寺を起源として、平城京に移ってきた歴史を持つ。 戦前までは、それが荒れ放題で、お化けが出るとまで言われていたらしいけれど、戦後の住職の御尽力により整備され、今は世界遺産の石碑が門前にある。 ほぼ官寺の東大寺や藤原氏の氏寺としての興福寺などの大寺も素晴らしいと思うけれど、この元興寺は庶民の信仰の雰囲気に満ちている。 特に信仰に根ざした智光曼荼羅を中心とする浄土信仰、地蔵信仰、聖徳太子、
奈良東大寺の広大な境内を歩いていると、きれいに整えられた芝生の中に何ヶ所か石碑が点在している。 中には、「南無阿弥」とだけ地上に出て、それ以下は地中に埋没しているものとか、赤いよだれかけをかけられた小さな地蔵様などもある。 毘盧遮那仏で有名な大仏殿には、最近特に多くなった外国人観光客が行列をなしているけれど、それ以外の場所は二月堂、三月堂、四月堂、戒壇院他、ほぼ人が歩いていない。 大仏を拝むのも、小さな石碑や石仏を拝むのも、人それぞれ。 仏から見れば、同じこと。 大
石仏として、千手観音を彫るなど、特に過去においては、至難の技だったと思う。最近は、機械彫りが多く、やがては3Dを駆使した千手観音も作られると思う。手彫りであろうと、機械彫りであろうと、観音様には変わりがない。変わるのは、その観音様を見る人の心。無骨な観音様ではあるけれど、人の汗と労苦、拝み続けた人の心まで思って拝むか、きちんと造形された観音様を良しとするか。「両方とも、わが身、どちらも良し」とするのが、観音様の心と考えている。
小僧地蔵と呼ばれる地蔵がある。親の愛を受けながら、不孝にして、親に先立った子供の供養として、建てるとか。過去においても、現在においても、子供を誘拐したり、子供に対して残虐なことをする人がいる。 他人を犠牲にしても、自分の自由を守るということが、美徳のような風潮あるいは考え方があるけれど、やはり弱者を痛めることは、するべきではない。 弱肉強食とはいうけれど、それが正義として行う人は、「ケダモノ」でしかない。
「仏」という表現に、語弊があるかもしれない。 露天にたつ宗教的な意味を持つ像と考えて、紹介をしてみたい。 近鉄奈良駅から、北に歩いて数百メートル。 登大路町に、カトリック教会がある。 小さな商店街の道から、その教会へと登る脇に、純白の衣で手を合わせているマリア像が、とても美しい。 顔を天に向け、何を祈っているのだろうか。 我が子、イエスを思っているのだろうか。 じっと見ていると、わが心まで、洗われるような気持になってくる。
奈良興福寺から春日大社一の鳥居に向かっていくと、道の脇に、小さな地蔵菩薩の石仏がある。 時々は、拝む人もあるけれど、ほとんどは通り過ぎていく。 お顔そのものは、優しい。 いつの時代に設置されたのかは知らないけれど、ここの場所に立っているということは、それなりの由来があるのだと思う。 その由来を持って設置され、その後は通り過ぎる数多の人々や、人々の思い、見つめてこられた。 それを感じた時から、目にするたびに、必ず手を合わせるようにしている。
吉祥寺駅の近くの寺で、箒を持った笑顔の地蔵様の石仏を見た。 とにかく可愛らしいし、つい撫でてしまった。 「庭も掃きます、あなたの心も」 そんな言葉が聞こえたような感じ。 吉祥寺の雑踏の中、心がスッとしたことを覚えている
石仏に限らず仏像を愛嬌のある笑顔などで、造る場合がある。 それを見て、「不謹慎だ」とか「重厚さに欠ける」などと言う人は少ないだろうし、もしいたとするならば、その人の感性を疑ってしまう。 やはり人の心は愛嬌のある笑顔や、やさしい笑顔で、救われる。 そもそも、笑顔なくして、何の人生なのだろうか。 生真面目、重厚だけを貫いて生きるなど、まっぴらごめんである。