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明智光秀。資料と文献でわかる真実と俗説の嘘を。黒幕は?

『明智軍記』(あけちぐんき)は、江戸時代中期の元禄初から15年(1688年 - 1702年)頃に書かれたといわれる、明智光秀を主人公とする軍記物である。

明智光秀の美濃脱出から山崎の戦いの後、光秀が小栗栖の竹藪で殺害されるところまで書かれている。前述の通り著者が不明の上、明智光秀の死後100年ほど経った頃に書かれた軍記物(創作を含む作品で、資料としても二次、三次資料)であり、誤謬も多く、他書の内容と整合しない独自の記述が多くあって裏付けに乏しいため、一般的に史料価値は低いとされる。

高柳光寿は「誤謬充満の悪書」とするが、小和田哲男は「『明智軍記』の作者が、現在私たちが知りえない何らかの情報を握っていた可能性は皆無とは言えず」「同書によってしか知ることができない情報も少なくない。もっとも、軍記物としての限界から、そのまま信用できない部分も多く」記載内容を吟味する必要があるが、全く史料的側面がないわけではないとする。

「明智軍記」wikipedia より

いわゆる、世の中に出回る光秀像はこうした信頼性のほぼないものを丸呑みにして作られたものである。

確実に言えていることと言えば

近年『遊行三十一祖京畿御修行記』というほぼ同時代の史料に「明智十兵衛尉(略)越前朝倉義景頼被申、長崎称念寺門前に十ヶ年居住」との記載が確認されました。 これにより、光秀が朝倉氏を頼って越前に来たこと、称念寺門前に10年間住んでいたことが明らかになりました。

https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2019exhb/202001m/1.pdf

『光秀と称念寺』より

資料で明らかなことは?

つまり美濃の国の斎藤道三、土岐氏の元に仕えた家系は真実でない可能性が高いですね。「明智軍記」は本当なのか?違うらしい。
それは江戸後期に初めて出てきた記録で赤穂浪士討ち入りの時期に書かれた文献。

福井の名門貴族大名の朝倉家に仕えたのは御覧のように事実であり、上にあるように当時の文献で確認されている。

ここから最も穏やかな穏当な推測をすると。。

朝倉氏と細川氏は成り上がりの戦国大名より官位や出自で格上であり、足利将軍とも近かった。

つまりは、このコネクションを信長は気に入ったのです。
京都の人とは言葉も通じないし、みやびた儀礼を知らない地方豪族成り上がりの信長にはなくてはならなかったのが、身分はないものの、なにやらのいきさつでその事情に明るく能力の高い光秀だった。

※また考えていただきたい事

尾張言葉とはあれ。ミャーミャーという言葉と京言葉はあまりに違うために意思疎通不可能だったんです。バイリンガルの光秀はとても貴重であった。

※参考

学校で国語を教わりテレビもあれ鉄道がある時代なのにこんなに同じ近代日本でも通じないのです。

当時の尾張と京都では言葉は通じない。日本語とハングルほど違います。


光秀なくして天下布武なく、信長なくして身分の低い光秀の出世はない。

冷遇されていた?そうではない証拠

まず家来の中で一番早く城を与えられていました。柴田、丹羽、羽柴より早く城持ちとなり。その場所も都の京都に近い亀山の坂本城。
一番のお気に入りだった可能性が高いと思いませんか?
さらに年齢。信長より十歳は年上であり最少でも資料によると六歳年上。

そして明智光秀の名前からわかること

明智惟任日向守光秀

日向守とは秀吉の中国征伐の後の九州征伐を任される予定だったことを示します。例により大いに期待されています。

そして朝廷幕府黒幕説はまずありえない
もしそうならば、本能寺の変を起こす前に最も近しく幕府や朝廷に近い細川氏の同意を取り付けているはずである。

しかし謀反後に同調を求めた手紙を送られた細川藤孝は拒絶している。

もうひとつ。

そうとするならあまりに計画性がなく足利将軍家が背後ならば、上杉にせよ多くが呼応したはずであり、仮に負けるにしても三日天下で終わるはずがない。

寝技を駆使し、信長が、ブルータスお前もか、と驚く状況を作ろうとした痕跡があるはず。しかしまったくない。

※ちなみに細川ガラシャは光秀の愛娘であり細川家に嫁いだ藤孝の嫡男、忠興の妻である。

ならば本能寺の変の背景は?

わかりませんが周りを囲うように探りましょう。

本能寺の前に大病をしており当時では既に高齢の六十より何歳か若い程度でした。つまり最晩年におり、側室はいない身の上で妻はその前に高齢により他界している。

信長の「人間五十、下天の内に、」からすると当時の平均寿命は越えている。老いは忍び寄り深刻になり、体も弱まっている。そう考えると、大きな野望からしたとは思えませんよね?

人によりますか?

なんでしょうね?
この背景で信長を焼いた。そして変の一年前には信長に感謝している旨の手紙を身内に書いていた。

そして狂気の信長像は確かでありますが、たとえば延暦寺の焼き討ち。理性的に猛反対したと思われがちです。通説ならここで信長を嫌悪したい所。

ところが

“討滅すべし”

と書かれた文献が存在している。

いったいなにが?

わかりません。

では。

※のちの天海云々は論外なのでやめましょう

娘は成長し、名家に嫁ぎ、妻は高齢により死去した。この風景からすると九州だの朝鮮だの明だのは勘弁してもらいたいと?疲れると?とはいえ信長を討つのも疲れますが。

ということで。

何かの形で社会に還元します。あるいは次回の無料記事に。でも水準保証の返金付きですから安心して、胸躍らせてどうぞ。