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同期の引退に思うこと

年末にすごくいい記事が出た。


主役の本人もすごく喜んでシェアしていて、過去同じ職務を務めていたこともあり、次は主務という職務に就く人たちの思い出を書こうと思った。私が同好会の主務をやっていた時、蹴球部の主務はT君で、グラウンド利用確認や体育会の集まりなど何かしら接点が多かった私たちは学部や本拠地とする校舎は違ったけれどよく話すようになり、規模や所属するメンバーの部活に対するプライオリティには差があるものの、共通して持っていた運営という難しさの悩みや醍醐味をほぼ愚痴として共有していた。あんなこと話したなー、あれってどういう結論になったんだっけなど、とりとめもない記憶をたどっていると年が明け、いよいよ書き出そうとしたその時。

ここ3年くらいの間覚悟していた出来事が本当に起きた。

覚悟していたとは言え、概念をただ理解しているだけと、実際に体験して認知するのとは雲泥の差である。
しかも、2週にわたって同じ出来事が起きた。まだ1週めの出来事を消化しきれていないところに、2週めがやってきて、もうこの年明けは人生で最も忘れられない年明けになった。感情的ではないけどこう、お祭りの跡地というか、ローマのチルコマッシモに行ったことがある人はあそこの風景と空気感を思い出してほしいのだが、昔確かにここで人々が集い熱狂したんだけど今はもう草木と土があるだけで、そこにそっと座って風に吹かれながら昔の熱狂に思いを馳せる時のような、穏やかな見た目だけど内面は揺れて熱い状態。
今もそれは続いているのだが、起きてしまったことは受け入れて次へ進まないといけないので書くことにした。

羽生直剛選手 現役引退のお知らせ

石川竜也選手現役引退・トップチームコーチ就任のお知らせ


羽生くんと石川くんと私の共通点は、学籍番号が98で始まる点である。私たちは試験の内容は異なるが同じ日に入試を受けて、1998年に筑波大学へ入学した。彼ら2人は高校時に千葉県と静岡県のサッカー選手として非常に優秀だったので、大学からお呼びがかかりほぼ受かっているも同じな試験を受けた。私は普通の大阪府の高校生だったので、学校初のチャレンジで先生は非常に嫌がったが、自分のある程度得意としていることと研究への熱意について話せば受かるかもしれない公募推薦という枠で受験した。

11月末の2日間にわたって試験が行われ、試験の前日に初めて大学へ下見に行った。実はもともと別の大学を受験するつもりで、わざわざ夏休みに家族旅行をその地域にしてもらってまでオープンキャンパスに行ったのだが、先に試験があって早く進路が決まるかもしれないというのと、そう言えば筑波なら体育も芸術もあるし横断的に研究できるのではというひらめきもあって受験したので、名前は知っていたもののどの辺に位置しているかや東京からどのくらいどういう交通手段で行くかもわからず、すべてはぶっつけ本番であった。お昼を過ぎて大学に着き受験会場の建物を把握し、大学の中をぶらっと通って宿まで行くバスがくるバスセンターまで向かった。受験会場の建物が南北に長い大学の敷地の北の方にあるというのは理解していたので、南にあるバスセンターへ歩き出す。道すがらサッカー場の位置もわかり、その頃既に高校サッカーでそこそこ有名な石川くんたちが受験するのを知っていたので、あのエリート達はここでやるのかーと思いながら学内を南下していった。医学の建物の横を通ると、上品なツーピースや柔らかそうなウールジャケットを着たお母様と少年のセットが複数いて、医学部受験というのは入試にお母様が着いてくるくらい旅費がかかるのかと感銘を受けた。
受験することが結構直前に高校からOKされたこともあって、大学から近かったりホテルという形式の宿は取れず、周辺地域の小さな民宿のお座敷で3人相部屋という宿だった(ここで一緒だった2人のうち1人とは入学後に寮のお風呂で裸の再会を果たして今でも仲良しである)。とつらつら書いていて、意外とこの入試について細かいところまで覚えているなと自分でも思う。でも入試の話を書きたいんじゃなかった。

98同期である彼らの姿を学内で初めて見たのは、共通か学際と呼ばれていたと思う何かの授業である。羽生くんは私と同じくらいの身長できらきらした大きな目をしていた。石川くんは今と全然変わらない(38歳でようやく年齢が顔に追いついた感じがする)。サッカーで大学に入れるのはこういう人なのかーという素直な感動があった。彼らと同じ蹴球部に所属する私の地元友達も同じ授業を取っていたので、その授業の時はだいたい彼と後ろの方に座って2人を観察しながら、部のヒエラルキーの話とか俺はこれくらいサッカーに懸けているという友達の熱い話を何となく聞いていた。
蹴球部は1学年40人くらいいたので、当時でもAチーム以下カテゴリが6個くらいあり、私の友達はひとまず下から2番目のカテゴリに入った。彼からしたら、羽生くんも石川くんも一緒に蹴れるなんて幸せと思うくらいの人らしく、最初の頃はあの2人と話したい、と言っても「俺がまず仲良くなるから」と全然取り次いでくれなかった。そうこうしているうちに2年生になり、友達からカテゴリが上がったと連絡がきた。とうとうあのエリート達の仲間入りやん!と祝うと、アホか1ランク上がっただけでAチームちゃうわと半泣き半ギレみたいな返信がきて、挙げ句の果てに夕ご飯をおごらされた(体育専門学群の友人らの白米消費量の話はまた別にしたいと思う)。

全然2人のことが書けない。

当時ワールドユースと呼んでいた大会に唯一の大学生として選ばれ、あんな高さの鳥肌立てたことない!と今でも思わせてくれるほどのフリーキックを決めた石川くん。トルシエのキスを全力で顔を背けて拒否しようとしてしきれなかった石川くん。その年の体育会納会か何かで一緒になった時、もうシーズンオフ(だったと思う)なのに一滴もアルコールを飲まず、お皿に彩りと栄養双方のバランスよくビュッフェのご飯をのせていた石川くん。

ユニバーシアードの代表に選ばれてうきうきしているように見えた羽生くん。大会から帰ってきて、何となく一皮むけたのか身長がのびたのか、プレーが大きくなったように見えた羽生くん。夏の暑い土曜日に颯爽と自転車で去っていく色白の羽生くん。

(もしかしたら他にもいるのかも知れないけれど)98同期の中でプロサッカー選手として新卒就職したのは2人と、鶴見くんと平川くんの4人だ。
鶴見くんは30歳になる手前で引退した。プロになって満足いく仕事ができていたのか傍目からはちょっとわからないし(でも鹿島時代の石川くんも同じ感じだったと思う)、正直大学の時もポテンシャルを全部出しきれていたのかはわからない。体格もよかったし、チーム構成やメンバーによってはもっと輝いたかも知れないと思う。彼の引退の時、ちょうど自分の転職時期とも重なっていたことが影響したのか、次のステージに踏み出す決断をする姿勢の方に強く感銘を受けた。会社員がただ別の会社に移るのと、彼のジョブチェンジは少し違ってくる。年齢も微妙なところだから余計にそう思った。でも、寂しさはなかった。

ここしばらく、羽生くんと石川くんの2人がスタメンで試合に出ていることは減っていて、また怪我でお休みのことも多かった。だからシーズンオフになるたび、あの人たちはまだこの仕事を続けるのかずっと気になっていた。それは浦和の平川くんも一緒だ。
もう16年同じ仕事をしていて(平川くんなんて新卒プロパーでずっと同じところで働いている)、確実に身体を酷使しているので以前と比べるとできなくなったことや劣ったこともある。それをカバーしながら、例えばプレーの手前の意識や姿勢といったところを年の功で伸ばし続けて戦い続ける彼らの姿は、特にこの5年くらいの間で凄みというか年月の厚みというか、まぁ観るこちらがそう感じるだけなんだけど大人として円熟味を帯びていた。
大卒選手の寿命が決して長くない業界で、16年という時間を積み重ね過ごしてきた彼らには本当に尊敬の念しかなく、それは初めてあの教室で彼らを見た時と同じ素直な感動だ。35歳という一つの山を越えると特にその尊敬は年々増して、増すことは同時にいつか引退の日がくるという覚悟を強いてきた。
石川くんの契約満了は早い段階で発表されていたので、このオフはちょっと覚悟を決めていた。ただ続報はなく、トライアウトにも出ていなかったのでどこかと交渉してまだ働く気でいるんだろうなと思っていた時、平川くんの記事が出た。

泣いた。お気楽サラリーマンでごめんねと懺悔した。毎年葛藤して、それでも現役を続ける苦しさを選ぶ姿がもう鑑すぎて、こんなに辛い葛藤を羽生くんも石川くんも続けていたのかと思うと、なんかもう、この辛さを十分味わっただろうししんどいなら辞めてもいいんじゃないかとさえ思った。

思ったのに、いざ羽生くんの一報を読んだらもう会社のトイレに入るしかなかった。石川くんの時は地下鉄でずっと天井を眺めるしかなかった。

続けた長さと、その長さゆえに彼らが経てきただろう様々な気持ちの揺れと整理する強さ。そのすべてを尊敬する。でも、寂しい。猛烈に、寂しい。

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