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ただの懐古趣味ではなく古きと今を敬い審美眼を磨く決意

生まれ育ち、一時期働いていたこともあり、阪神間に残る「いいお金の使い方をした」建造物や意匠がとても好きだ。幸運にもそういったことに造詣の深い両親や友達、先輩や同僚が近くにいたので、あちこち連れ回してもらいたくさんの本物を自分の目と手で見ることができた。新歌舞伎座を正面から見るには絶対車からだと同じ道を何度も走ってくれたり、うちの大学は絶対見るべきだと府外に進学した私を長期休暇のたびに大学内へ誘ってくれたり、少し危険な界隈の散歩に面白がって付き合ってくれたり。そして味気ない通勤時間をほんの束の間別世界へ変えてくれる地下鉄の美しい照明。
それらは阪神間の財産であり、モダンという一言の中に積み重ねられた過去の人々の連綿とした日常でもある。私たちの日々に点在する駅や橋、階段と門扉、無数の天井と照明、窓枠。点在するものたちと共に過ごすことで身体化されていく、阪神間の「いいお金の使い方をした」「いい雰囲気」。

だからこそ、こないだ発表された大阪メトロの駅の改修計画の薄っぺらさには腹が立つし、お金の使いどころのセンスがなさすぎて失望した。現存する駅に染み込んだ過去の匂いがどこにもなく、無味無臭と感じたからだ。

船場界隈の繊維問屋という過去を持ち上げたのは理解できるが、なぜそれがテキスタイルをテーマに駅を覆うことになるのか。何より今の各駅ごとに異なる意匠を持たせた天井照明やタイルが完全に消えている。完成イメージではないなどいろいろ言い訳も飛んでいるが、そもそも現存するものを愛でたり敬意を払う=歴史や背景を踏まえるという行為が欠落しているようにうかがえる点がとても残念だった。

でも、それってただの懐古趣味なのでは。

会社組織において、旧態依然としている体制をドラスティックに変えるため外部の人を入れて「刷新」のプロセスを推進すると、途中で必ず懐古趣味との軋轢が生まれる。新しいものが持ち込まれると、古いものの中でそれなりに旨みを吸ってきた人々の中では、古いものが跡形もなく消されるのではという不安が反感へと変わるのだと思うし、それは自分のいた組織でもクライアントとの仕事でもそうだった。
思考のクセにも大きく依存するが、今を100%完成していると捉える人は、新しいものが今を上書きし、すべてを塗り替えると考えがちだ。そこで評価され旨みを吸ってきた人々がおおよそそういう傾向にあることは避けられない。新しいものが今に付加され、元のパイが拡張するという思考にはなりづらいし、受け入れにくいのだ。
そして持ち込まれる新しいものがすべて正解かと言えば、そうでないことの方が多いし、そんな場合、すぐに反旗が翻る。ただ、持ち込む側の古いものや今への敬意なしに軋轢は解消できないし、効果的な付加も成り立たない。努力を続け、作戦を練り続けなければいけないのは常に持ち込む側である。

新しきの何が生きるのか、刷新のプラスとしての影響をもたらすのかを判断し選択する決意とそれを支える審美眼は、古きと今を敬うという情感の部分が大きい。人間相手の仕事をする限り情感はついてまわり、情感は五感のすべてからインプットされる様々な「覚」と知識が、生活の営みを通じて身体化されることで豊かになる。ただの懐古趣味ではなく、古きと今を敬うことで審美眼を自分の中に持ち続ける鍛錬を続けて生きていきたいと、大阪メトロ騒動を経た年の瀬の決意である。

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