「ちはやふる」はドキュメンタリーだった ※最終首ネタバレ含む感想文

※考察ではなく最終首を踏まえた個人の感想文です。
 ネタバレを含みますのでご注意ください。
 作中より台詞を引用しつつ、キャラクターと物語を振り返っています。
 末次先生、あらためてすてきなお話をありがとうございました。

「ちはやふる」の世界は多分すぐそばにある

 先日の記事でちはやふるを”まるでドキュメンタリーのようだった”と書いた。
 15年。15年という長い月日を感じさせぬほどの濃密な三年間、正しくは六年間と少し。
 彼女たちの情熱の変遷を、リアルタイムで追いかけた。

 紙の中で繰り広げられるフィクションの物語である、ということを忘れるほどに、彼女たちは生き生きと、切実に、青春を謳歌していた。
 周りを囲む大人たちですら、例に漏れないようだった。
 きっと今も千早はこの世界のどこかで、自由になる術を探すべく、札を払っているんだろう。そう思わせるだけの説得力が、この50巻にはあった。

 競技かるたという親しみのない枠組みの中で、燃えさかる情熱に身を投じる少年少女たちのスポ根物語を読んでいたはずが、いつのまにか”競技かるたと暮らすには”という、当事者たちにとってごく身近な、それでいて重要な問題へとテーマが移ろっていく。
 自己対峙から、他者とのかかわりへ。強くなるためのかるたから、つながるためのかるたへ。それはどこに落ちているのかわからないバトンを手あたり次第探していくような、途方もない作業に思われた。けれども、横へ横へと――外へ、より外へと枝分かれしていく世界をみるうちに、彼らの成長を肌で感じていく。ページをめくる指に熱がこもる。

 多分、知らないだれかの話ではないと思わせられたのだ。
 それほど彼らは生きていた。
 私は、かるたを通じた彼らの対話を盗み見た。
 何かを得るために一生懸命になることの難儀と尊さを、千早たちは身をもって示し続けてくれていた。
 

個性豊かなキャラクターたち

綾瀬千早の周りを巻き込む力

 綾瀬千早は無神経なところがある。
 それは作中でもしばしば語られる。彼女は邪気のない怖さがある。
 かるたに拒絶反応を示す新の前でかるたを並べてみたり、太一の苦悩の根幹にありながら立ち去る彼に縋れたりする、素直さ。
 小学生のころからほとんどといっていいほど変化のなく見えた綾瀬千早は、私にとって一番感情移入しにくい存在だった。少女漫画としては稀有なケースだと思う。けれども、なんだかあこがれた。こうも純度100%の感情で向かってこられると、なかなか本気でこたえずにはいられなくなる。

(新 私にも仲間ができたよ)(新からもらったものが広がってくよ)
―3巻

 さっきかるたの世界が外へと拡大されていくことの尊さについて触れたのだが、千早は3巻の時点ですでにそのことを喜ばしく思っていた。
 新は、(桜沢先生が言うところの)千早にとってのエンジンになり続けている。
 かるた選手としての千早は、新の情熱を食べて育ったと言っても過言ではない。
 新からもらったものが広がってくよ、が、重なって重なって重なり続けてのクイーン位。千早のてのひらにはもはや収まりきらないほどの、たくさんのものが抱かれ、そしてその情熱がどんどん伝播していくさまが描かれた。

(ああもっと自由になりたい 競技線の中で)―5巻

 千早は貪欲な女の子だった。何かを得るために何かをあきらめたことはそういえば一度もなかった。
 違うかもしれない。”あきらめる”ことをせずに、”選び続けてきた”のかもしれない。

(わたしたちいつまでも詩暢ちゃんを一人にはしておけない)―14巻

 自分の勝利とはすなわち現クイーン=詩暢の敗北であるのだが、千早は決して詩暢を敵視することはなかった。それどころか怖くないように、あえて詩暢ちゃんと呼ぶ。
 ここでも、詩暢との関係性、かるた界の発展、自分の将来、夢への執着、どれひとつと捨てることなく、千早は早々にこの結論に辿り着いた。
 千早は詩暢に勝ちに行くわけではない。いや、勝ちに行くのだけれども、どちらかといえば迎えに行っている。同じ景色を見に行っている。
 詩暢がひとりで守り続けてきた荒野に花を植え、ほかの人たちを迎え入れようともしている。多分。
 それが千早のかるたの愛し方だった。

「詩暢ちゃんが周防さんに電話かけてくるのは普通のことなんですか?」―34巻

 千早は無神経であるとあんまりなことを冒頭に書いたが、だからといって不親切でも、鈍感でもない。
 肝心なときには(五分五分で)何かに気付くし、新のピンチにはなりふり構わず福井へ駆けつける行動力も見せた。
 一体何をどうしたら、こんなに損得勘定のない人間に育つのだろうかと思う。
 私は正直、千早を今後理解できる自信はないのだけれども、千早にしかない独特の感性、独特の繊細さ、そういうものをいとおしく思っていて、これからも守られていってほしいと願っている。

”あの時走っていったあの子だけがヒーローだから”―36巻

 千早はみんなのヒーローだった。
 それは確かにとてもしっくり来るなあと思う。
 それで言ったらヒロインは詩暢になっちゃうな。って新と太一そっちのけで思ってしまうほど、そこにおいてもヒーローだったと思う。
 クイーン戦の千早は本当にかっこよかった。瑞沢を背負うキャプテンの千早も、本当にかっこよかった。


無垢な鬼である綿谷新

 綿谷新がかるたを蹴ったのは衝撃だった。
 綿谷新にかるたを蹴らせたのが衝撃だった。
 千早とおなじように、新にもおそらく似た類の鈍感さや、視野の狭さがあるように思う。
 けれどもそこに祖父の教えや習慣が生きているのか、時折はっとするようなものの見方や寛容さが見え隠れするのが、彼のおもしろいところだった。

(自分のまんまで生きていいって言われたみたいやった)―22巻

 新は絶対に生きやすい性分ではない。
 転校先では、児童集団にありがちな排他的な空気感に真っ先にやられてしまったし、ちょっとおどけてみたり、愛想笑いをしてみたり、(自分にとっての)異質に迎合していくというソーシャルスキルに関して言えば、多分彼は低い。※いじめを肯定する意図ではありません
 その一方で、”かるた”という自分がおもしろいと信じているコンテンツをだれかとシェアしたい、という欲求はあるらしい。
 コミュニケーション、対人関係の根幹ともいえるその熱が、やがて千早たちを巻き込んでいく。そして、新は原田先生からの抱擁によって、ひとたび自己肯定を覚える。
 新にとっても、かるたというものの意味が増えた時間だったに違いない。

(なんでそこにいるんや? 邪魔や太一)
(おれは見下してたんかな かるたで 太一を 友達を)―21巻

(邪魔や 太一)―38巻

(どうしたらいい 太一)―38巻

 新はかるたの試合中でしかむき出しになれない、と私は思っている。
 普段は内向的な性格のようだし、わりと内側でごうごう燃えたり悶々と考えたりすることの方が多くて、言語的なアウトプットは得意じゃなさそうだ。

(太一の一番きれいな気持ち それをおれが打ち砕くのに こんな冷徹な 鬼になる自分を止められないのに)―40巻

 しかしかるたの最中だけは違う。
 まるで薄皮一枚はがれたように本音がこぼれやすくなって、”五歳児相手でも手加減しない男”になる。
 時折こぼれる新の傲慢さが好きだったし、傲慢になりきれない脆さが好きだった。

 個人的にはこういう新が、普段のコミュニケーションでももっと見られたらよかったのに、と思うほどには好みだった。
 それはまったくずるくも惨くも見えず、むしろ誠実ですがすがしかった。
 たとえば太一が新に”そこ”まで下りてきてもらえる瞬間を、ずっとのぞんでいたように。

「おれがサッカーやってもよかったんや」「なのに太一はかるたしてくれた」
「こんなに長くやって こんなに強くなるまで努力して どんな顔しておれが 太一のこと邪魔やって思えるんや……」
「かるたを一緒にしてくれて ありがとな」―1巻/40巻

 私にとって、ここは屈指の名シーンである。
 新はかるたを一緒にしてくれてありがとう、と二度言った。
 一度目はもちろんあのぼろぼろの畳の上で、別れの言葉として。
 二度目は、かるたを蹴った自分を経て、名人挑戦位を賭けて争った好敵手に。
 全力でぶつかり合うことでしかほどけないものが確かにあって、少なくとも新と太一にとって――あるいは作中すべての試合において、かるたは対話であったことを改めて思い起こされる。

 綿谷新に関して言うと、プレースタイルの変遷にもぜひ注目していたい。
 水みたいな流れるかるた、というのが彼の持ち味であるが、祖父のまぼろしからいかに脱却するか、という課題を、彼は彼なりにずっと抱えていた。
 永世名人の祖父を持つ新星、という世間からの目ももちろんプレッシャーであるし、自分の中に住まわせた”綿谷永世名人”に失望されるのが怖くて、怖くて仕方なかったというのもあるだろう。
 新は祖父の死に目にあえなかったこと――ともすれば自分のせいで、とも思いこみかねない過酷な運命をずっと気に病んでいた。その祖父への後ろめたさが、名人に上り詰めた精神力によってようやく溶けた。
 彼ははじめて永世名人の孫ではなく、”大好きなおじいちゃんに教えてもらったかるたが大好きな自分”として札と向き合うことができる。

 新にとって名人になるということは、すなわち祖父の死を受容するという作業であって、その高度な精神戦の果てにみごと殻を破れたことを、心の底からねぎらい、祝福したい。



真島太一は幸福に価値を見出せるのか

 作中随一の不憫属性として描かれた真島太一は、見ての通り顔がよい。家柄もよい、頭もよい、スポーツも万能と、いわゆる”ハイスペック男子”でもある。
 けれども彼は、一番ほしいものだけがいつも手に入らないという業を背負ってもいて、それゆえにいつも枯渇を感じさせ、身を削るような内省を繰り返してきた。
 新と千早が平たく言って”すごい人”として描かれる一方で、太一は千早のサポーター的役割から始まり、どこか俯瞰的目線を持ち続けるキャラクターでもあった。

(おれがみんなの背骨になるんだ)―4巻

 瑞沢かるた部の部長として過ごした日々は、太一に意義を与えたはずだ。
 サッカー部で、かるた同好会で培ってきたチームワークはここで発揮され、”自覚”を持った彼は強くなった。背負うものがあり、守りたい友がいてはじめて得た真島太一の執着心。

(お願いだ もう一生運命戦で 自陣出なくていいから だから今日 今日だけ いまだけ)―15巻

 運命戦で運命に見放されがちな太一が、これを願うことの大きさを、だれかわかってあげていてほしい。
 そして彼が「どうせおれなんか」とならず、見てくれ千早と祈れた貴重な瞬間でもある。

(おれをずっと励ましてくれたあの言葉を あの毎日を 呪いにしたまま生きていくなんて できない)―27巻

 太一は新にもらった”卑怯”という言葉をある意味呪いのようにして生きていて(それは言われて当然の行いだったので擁護のしようがないのだけれども、)以来心の中に新をジャッジメントとして飼っているような気がする。後ろめたくならないように、見放されないように、千早に胸を張れない自分に落ちないように。
 高校生以降そうやって自分を戒めながらも奮闘する太一は、卑怯というよりは必要以上に卑屈である。
 けれども、卑怯じゃなくなりたい、自分じゃなくなりたい、自分になりたい、という三段活用のような悩みに光さすことを祈らずにはいられないひたむきさがあった。

 真島太一よ、不憫に慣れないでくれと願う。
 不運に慣れないでくれ。
 それは時としてぬるま湯のように心地よく思えてしまうときがあって、むしろ幸福のさなかにいるときのほうが、喪失を考えたらよっぽど怖い。
 それでも君は、幸福でいるだけの価値がある。
 幸いをうつくしいものだと思ってくれ。と願う。

「新と千早のいるところに 行きたい 行きたい……」―37巻

 結局太一の願いなんてあのときからたったのこれだけである。
 たったのこれだけを言うために、いったいどれほどの時間と逡巡を費やしたことか。
 幾重にも張り巡らせたバリアを削ぎ落し、これを言わせた原田先生はやはりせんせいなのである。
 そしてその太一の切実で苦い葛藤でさえも、”美しい壁”と称してしまう師の存在がいかほどありがたいものか。
 手を伸ばすことをあきらめずにいることは、ほんとうに偉いことだ。
 新と千早のそばにいたら、きっとそれを忘れてしまいそうになるだろうが、ほんとうにほんとうに偉いことだ。
 それを言えずに、願いの種をころしてきた人のほうがきっとこの世にはたくさんいて、だから太一はこっち側の人に見えてしまうのだ。彼にも誰にも負けない才能があるのだけれども。

「千早がもし夢を叶えるなら クイーンになるんなら 一番近くでその瞬間を見たい」―39巻

 結局これは叶わなかったようで叶ってしまった。両者ともに運命戦となった時点で、千早の行く末を真っ向から見届けることができたのは観客席にいたもののみであり、そして太一は”たち”そのものだったのだから。
 そこで、自分のことじゃないと夢にしたらあかん、という新の言葉がどうしてもちらつく。
 千早と新に認めてほしくてかるたをして、千早の夢の手伝いをしてやりたくてかるた部を作って、千早の夢を一番近くで見届けて研鑽に励んで。
 紆余曲折あり、東京を離れることを選び、太一は今まで自分とかるたの接着剤を果たしてくれていた”大好きな人たち”を手放す。そのうえで、かるたを続けることを選んでいる。

 あの日言えなくて悔しかった新の「俺が倒しにここへ来る」を言えた太一は、手を伸ばせた太一は、きっとまたひとまわり強くなっただろう。
 二年と少し前に千早の夢が本物の夢になった瞬間を目撃したように、今度は私たちが、太一の夢が本物の夢になった瞬間を目撃したのかもしれなかった。



上質な孤独と戯れてきた若宮詩暢

 孤高のクイーンが最たる寂しがりやであったというのはなんとも皮肉なことであろうか。
 孤独が人を強くするとはしばしば用いられる文言であり、それを体現した存在であったけれども、そこへ「一人よりも二人の方が強くなれる」と言う千早が現れる。

 かつては勝利よりも友人を優先していた様子から、詩暢のなかには常に寂寞の思いがあったはずだ。
 けれども、かるたへのめり込めばのめり込むほど、そして大人になればなるほど、詩暢はその思いに蓋をして生きるようになった。

 当初のクールで、けれど情熱的で、圧倒的な品のある強さで――といったイメージから、じわりじわりと年相応の女の子に落とし込まれていく様子は、なんだか見ていて安心する。
 そしてヒロインのライバルキャラとして相応しい風格と魅力を保ち続けてくれた、唯一無二のキャラクター。
 個人的には、新の次に千早の神様になり、友達になった存在という意味でも注目している。

「かるたで生きたいのにできん」「かるたしか好きじゃない かるたしかできん」―29巻

「うちは有名になりたいんやない 仕事を作りたいんや」―41巻

 詩暢はかるた以外のことに関してはとことん不器用だった。
 でも仕方ない、だってかるたにすべてを注ぎ込めるほどに、かるたが好きで、ともだちなのだ。
 かるたとともに生きていく術を模索する詩暢はかっこいいし、そこで「ひとりでは答えに辿り着けない」ことに気付き、周りの大人や仲間たちの協力を仰げるようになっていくさまが、なんともいじらしい。
 内から外へ。外へ。
 拡散する世界=ちはやふるのテーマを如実に表した象徴的なキャラクターでもある。

(みんなの声は全部 うちが思ってたこと)
「おおきに 千早」―49巻

 小さい神様=札と語り合うプレースタイルは独特なものであったが、すべてがここに収束したとき、思わず鳥肌が立った。そして泣いた。
 詩暢は潜在的にずっと千早を受け入れていた。
 そして千早が真正面から誠意をもって”かるた”でぶつかったからこそ、詩暢はこれを認めることができ、ふたりで次のステージへ進めたのである。
 千早は新クイーンとなったが、きっと二人で手に入れたトロフィーで、この二人が競技かるた界を今後明るく改革していってくれるのだろう、と期待を寄せずにはいられない。
 どうか荒野に花が咲きますように、と祈る。



周防久志のみた光とは

 最初は感じが悪い人兼コメディ枠兼ラスボスのような存在感だった周防久志。ミステリアスな空気は、読み解かれていくごとに人間味へと変わった。

「かるたでならひとかどの人間になれるんじゃないかと思って」―25巻

 この台詞は、彼にまつわるエピソードをすべて知った上で読み返すと本当に胸に刺さる。

「才能のあるやつは火がつくまでが早い でもそれだけ 火の強さや燃え続けられる時間を保証はしない」―29巻

 自分の可能性を時限爆弾のように思っていて、この火はいつか燃え尽きるとどこかであきらめている。だからこそ瞬発力のようなあの能力が出せるのか。かるたそのものにさほど執着していないように見えた久志が、札を愛おしんでいくまでの過程は、ちはやふる全編を通してもっとも美しいもののひとつだと思う。

(美しい 美しいな きみと身を捩りながら編むこの札の並びは 色のちがう光を 押し花にしたような端正なかるたは)
(見えなくなるのは いやだな)―49巻

 これは彼がいとしの”札”に対して詠んだ詩に違いないでしょう。
 そして彼もまた、かるたそのものをあきらめてしまうことはやめにしたらしい。兼子さんや須藤や太一といったさまざまな関係性を結び、かるたを愛してしまった久志がつぎに見る光が、やわらかいものであるといい。彼の世界がつながり続けるといい。

 それにしても、名人位にふさわしく、存在感と魅力にあふれる、本当に素敵なキャラクターだったなと思う。


師が同志であり続けてくれるということ

「千早ちゃん さっき試合の後きちんと礼をしなかったね いけないよ どんなに悔しくても礼を大事にしなさい」―8巻

「青春ぜんぶ懸けたって強くなれない? まつげくん 懸けてから言いなさい」―2巻
「それだったらあれだよな 復讐したいとすれば私にだよな」―37巻

 作中私にとってのMVPは原田先生です。
 同志として肩を並べ続けてくれることの絶大な安心感と後押し。
 それでもやっぱり、先生でいてくれること。
 父性ときびしさをもって三人を見守り続けてきてくれた先生の要所要所の言葉がどれもあたたかく、教科書のようで、私は何度も反芻している。


その他の主人公たちの話

原田秀雄
(君たちは自分たちが主役の物語を生きてると思ってるだろう? ちがうよ 輝いてる君たちでさえも だれかの物語の一部分だ)―35巻

 というすばらしい名言のとおり、ちはやふるは主人公が無数に存在する。
 癖のつよいキャラクターたちの、独特の悩みも、普遍的な葛藤も、天才も凡人も老人も子供も、みなが我が人生の主人公として描かれつづけてきている。
 胸に響いた台詞を、これでも少なく絞ったのだけれど、まったくもって書ききれないから、やっぱりみなさんの目で確かめてほしいです。

大江奏
「“恥ずかしい”と泣ける心は美しいと思います」―9巻

 奏の美しさの根幹はこういう精神であると思う。

駒野勉
「言ってほしい言葉をくれる人間に人は簡単に操作されるよ そんな簡単な人間になるな」―28巻

 勉には名言が多いけれど、田丸に向けたこれはいっとう響いた。それは過去の勉を知っているからかもしれない。

西田優征
(でも 綿谷新に勝つための毎日だったか?)―33巻

 決して弱者ではないのに、それでも勝てない。読者に近いところでその葛藤をいだきつつ、それでも腐らずにいてくれた西田は、かっこいいやつだ。

花野菫
「先輩は…自分になりたくて頑張ってるんです……!」―20巻
「この恋が人生で一番きれいな恋になるんです」―35巻

 恋愛バカとして登場した菫であるが、もうとてもバカなんて言えないくらい綺麗な感情で、まっすぐ邁進していく様子は、とても胸を打たれた。
 そして彼女の使う言葉は、ときどきはっとするほどきれいだった。

深作時次
「生みの苦しみを知りなさい 知ったうえで覚悟を持って人を許しなさい 短歌でも文学でもなんでもです」―18巻

 深作先生の言葉は教訓にして飾っておきたいものばかり。

木梨浩
(さみしいよ 才能のそばは苦しいよ)―29巻

 すっとんきょうなキャラクターに見えて、こんなにも懸命で実直な人はいない。優しい人もいない。

坪口広史
「青春は何度でも来る」―29巻

 原田先生の教え子である坪口さんが、これを言うすばらしさと怖さ。
 懸けても懸けても終わらぬ青春。

桜沢翠
「富士崎での日々が永遠にあなたたちのエンジンになることを願ってます」―33巻

 桜沢先生は個人的にとても好きなキャラクターのひとりであって、あの凛々しく正しく強い女性が、実は愛と母性に満ち溢れた現役選手であるという、その力強さに背筋を正される思いがする。

須藤暁人
「勝ったら競技かるたを一生やる」―36巻

 ドSの励まし方ってかっこいいんだな。

猪熊遥
「でもきっと…20年経って振り返ったらいまの35の身体でさえスーパーカーに見えると思うの もっと走ればよかったと思うにちがいないの」
「あなたが乗ってるのはまちがいなく最速の真っ赤なスーパーカーよ」―37巻

 ちはやふるの中でも一位、二位を争うほど好きな台詞である。
 若さに勝る無敵はないが、人生の中で今が一番若いのだということを、どうしてなかなか忘れ続けてしまうのか。

綾瀬千歳
「それで間に合う?千早」―42巻

 千歳は、千早のことを知っている。わかっているのだ。
 という得も言われぬ安心感に包まれておいたことが、最終首のカタルシスにつながるとは思いもよらない。

”自分を卑怯と思うことの方がずっと怖い”―38巻

 これは試合をとおして一貫して描かれていた。後ろめたく思い、こころに隙ができたら負ける。人生にしたって一緒だと思ってしまう。



きみたちの青春をこっそり覗き見てしまった

Q.かるたとはなんですか

「わからないからやるんだよネ」―9巻(原田先生)
「わからへんさかい、やるんやな」―50巻(若宮詩暢)

 ということで、書いても書いても書き尽くせないちはやふる感想文、そろそろ手がしびれてきたのでいったんお開きとするわけですが、このとおり、きみたちの熱い青春を教えてくれてありがとう、という気持ちでいっぱいである。


幸せを祈れることのさいわいについて

 幸せでいてほしいなあと思う。幸せって言葉の意味を説明するのは難しいが、きみたち、どうか幸せのなかにいてほしいよと祈る。
 あたたかいごはんを食べ、好きな人と楽しい話をし、ふかふかの布団に包まれて眠り、かるたをして、かるたをして、かるたをして、語らって。
 日常がどうか続いていきますように。

 フィクションなのに、そんなふうに心から祈れてしまうまんがって、人生で何度出逢えるのだろうと思う。
 終わってしまうのはさみしいけれど、終わってくれたから、千早たちは永遠だ。
 これからもどこかで、自由に札を払っていてね。


余談:どうしても気になることがあるのですが

・千早が太一に告白の返事をしたとき、ごめんのほかに何を言ったのでしょうか。“感じ”悪いから聞こえねぇよ……
・新の書いた純文学:読みたい

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