人の死が日常にある、3歳児との会話。
「○○○○(前に亡くなったおじいちゃんの名前)、お空にいるもんね」
「あのおばあちゃんも、○○○○のいるお空に行くの?」
先日もパーティーがあるから来て!と誘われて行ったら、とあるおばあちゃんのお葬式だった日の後に、こんな会話を息子と犬の散歩中にした。
この子は3歳ですでに人の死が日常にあるんだ、とハッとした。
お看取りも葬儀も自分たちで。
我が家の近所にはお看取りから葬儀までをやる介護付きシェアハウス「はっぴーの家 ろっけんがある。
正直、私自身も初めて参加した際にはいろんな気持ちになって、ぐるぐるして数日は言語化できなかったと記憶している。
その後にあった自分の祖母のお葬式は通常のものだったので、違和感を感じたりもした。
近所に住みはっぴーで働く若者のブログを見ると細かく書かれています。
note:『明るく賑やかな「死」』 前田彰 / 掬ぶ人
亡くなる前にじっくりとその方の言葉を聞かせていただく貴重な体験も。
最期まで人は何かを「選択」する。
そして、そこに個性があり、生き様が出る。
毎回、みんなかっこよくって、
私もあんな風に強く生きれるだろうかと毎回自問自答する。
さらにそれが、家族にしっかり受け継がれていく。
こうやって人と人とが混ざり合い、生きることが交差して、
命が循環していく。
そして、毎回こどもたちもたくさんそこにいるけれど、
みんなそれぞれにその場を感じていて、経験を積んでいる。
大人もこどもも関係ないなぁと、改めて息子との会話で思ったりした。
自分の「葬儀」をいつも考える。
自分はどんなお葬式だったら嬉しいか。
どう生き切りたいか。
死はいつやってくるかわからないけれど、
そいうやって日々の中に考える機会があることはとてつもなくありがたい環境。
息子はどんなことを吸収して、成長するのか。
話を一番初めの息子の話に戻すけれど、
このまちで本当にたくさんの経験をさせてもらっている。
1家族だけではできないことばかり。
そんな環境の中で育てさせてもらえてることに感謝すると共に、
いつも与えてもらってばかりな我が家は、
どんなことをこのまちの中で循環させていけるのだろうと考える今日この頃。
ということで、最近は10代×20代の子たちのしゃべり場をやってみている。
みんなでご飯を作って、飲んで、人生のことをつぶやきあって。
他にもここしばらく温めてきた「まちのアトリエ」が始まる。
この話たちは、また今度!